人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]

京都市下京区にある神明神社(しんめいじんじゃ)です。

平安末期に創建された古社であり、祭神に天照大神と菅原道真公を祀っています。

また、源頼政の鵺退治にまつわる神社であり、鵺を射落とした矢の鏃が宝物として伝えられています。


神社概要

由緒


由緒書によれば、当地には平安末期に藤原忠通の屋敷(四条内裏・四条東洞院内裡)があり、その邸内にあった鎮守社に始まるとされます。主祭神にアマテラスを祀り、平安時代から今日まで人々の崇敬を集めているそうです。

また、社伝には「近衛天皇の御代に 頭は猿、尾は蛇、手足は虎 という姿の鵺(ぬえ)と呼ばれる怪鳥が毎晩のように現れて都を騒がせたため、勅命によって弓の名手であった源頼政に討伐令が下り、頼政は当社で祈願した後に鵺を退治した」と記されており、この時に使用されたという矢は頼政によって奉納され、鏃は当社の宝物として伝わっているとされます。なお、この鏃は今でも祭礼の時に飾られ、当社が厄除・火除の神といわれる由縁になっているそうです。

また、当社には榎の大木があったため「榎神明」とも呼ばれたこともあり、一時期は天台宗の護国山立願寺円光院という寺に管理されていたこともあったそうですが、明治の神仏分離令以降は神明町が管理しているとされています。

祭神


神明神社の祭神は以下の通りです。

【主祭神】

・天照大神(アマテラス):太陽を神格化した皇祖神であり、伊勢内宮の主祭神として有名

【合祀神】

菅原道真公(すがわらのみちざね)平安中期の政治家(死後、天満天神として信仰される)

境内社


人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]

神明神社の境内社は以下の通りです。

・北野天満宮
・石清水八幡宮
・伏見稲荷大社
・春日大社
・日本武尊

関連知識

源頼政の鵺退治伝説


人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]

由緒書にある「源頼政の鵺退治伝説」とは、『平家物語』『源平盛衰記』などに記されている京都に現われた怪物の伝説で、その内容は以下のようなものとなっています。

鵺(『平家物語』より)

近衛天皇(第76代天皇)の御代である仁平の頃、天皇が夜な夜な怯えて恐れることがあった。そこで、効験のあるという高僧・貴僧に大法・秘法を行わせたが特に効験は見られなかった。天皇の発作は丑の刻の頃であったが、それは東三条の森の方から一群の黒雲が現れて御殿の上を覆ったときに決まって天皇は怯えていたという。そこで、公卿らは集まって会議を開くことにした。

去る堀河天皇(第73代天皇)の御代である寛治の頃にも、同様に天皇が夜な夜な怯えることがあった。その時の将軍である源義家(みなもとのよしいえ)は紫辰殿(ししんでん)の広庇(ひろびさし)にて伺候(さもらい)していたが、発作が起こる時刻に弓の弦を3度鳴らして「前の陸奥守源義家」と名乗ると、皆の身の毛がよだって天皇の病気も快癒したという。

そこで、先例に倣って武士に警護させることとし、源平両家の武者の中から適任となる者を選び出した。そこで源頼政(みなもとのよりまさ)が選ばれたが、頼政は当時は兵庫頭であったこともあって「昔から御皇室に武士を置かれるのは、逆賊を撃退し、勅命に背く者を滅ぼすためであります。目にも見えない変化の物を退治せよと命は、未だに承ったことがありません」と申し上げた。とはいえ、勅命であったことから これに応じて参内することになった。

頼政は、信頼する郎等である井早太を連れ、井早太に鳥の風切羽で作った矢を背負わせていた。また、頼政自身は、二重の狩衣(かりぎぬ)を着て、山鳥の尾で作った尖矢を2本を滋籐(しげどう)の弓に添え持った。そして、紫辰殿の広庇に伺候した。なお、頼政が矢を2本持っているのは、その時の左少弁であった源雅頼卿が頼政を選出したことから、もし、一の矢で変化の物を射損じようものなら、二の矢で雅頼の首の骨を射るためのものである。

その後、近衛天皇が発作を起こす時刻がやってくると、東三条の森の方から黒雲の一群がやって来て御殿の上に棚引いた。そこで、頼政が黒雲を見上げると その中には怪しい物(変化の物)の姿が見えたので、もし、射損じたのであれば、この世に生きていようとは思わなかった。しかしながら、矢を構えて「南無八幡大菩薩」と心の中で祈念しながら弓を引くと、矢が変化の物に当たったという手応えがあったので、「仕留めたぞ、おう」と矢叫びを上げた。

また、郎等の井早太は変化の物が落ちてきたところを取り押さえ、続け様に丸太刀を刺した。そして、御所の上下の人々が手に火を灯して その物の様子を見てみれば、それは 頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしており、その鳴き声は鵺(トラツグミを指すとされる)に似ていた。これは"恐ろしい"という言葉では言い尽くせない物であった。

その後、天皇は変化の物を討ち取った頼政の功に感心を示して"師子王"という御剣を与えることになった。この御剣は宇治の左大臣が取り次いで頼政に与えるのであるが、天皇が御前の階段を半ばほど下ったところで宮中にホトトギスの鳴声が2、3度響き渡った。そのとき、左大臣が「ホトトギスが名を雲間に上げるように、そなたも勇名を宮中に上げることになったな」と言うと、頼政は右膝をつき、左の袖を広げ、月を横目に見ながら「弦月のある方向に従って弓を張っただけです」と申し上げて、御剣を受け取って退出した。

なお、頼政は天皇や臣下から「弓矢を取っても並ぶ者は無く、歌道にも優れた者である」と評価されたという。また、この変化の物は空の舟に入れられて流されたということであった。

その後、二条天皇(第78代天皇)の御代である応保の頃、鵺(ぬえ)という化鳥が宮中で鳴いて、しばしば大御心を悩ませる事があったので、先例に倣って頼政を召しだした。その頃は5月20日あまりの宵の事であり、鵺は ただ一声鳴いて、二声とも鳴かなかった。また、目標を探そうにも辺りは深い闇に包まれており、鵺の姿形も見えなかったので的も定め難かった。

そこで、頼政は まず大きな鏑矢を取ってつがえ、鵺の声がした内裏の上へと射上げた。すると、鵺は鏑の音に驚いて虚空でしばらくの間「ヒヒ」と叫んでいた。次に小さな鏑矢を取ってつがえ、それを射抜くと 鵺と鏑矢が並んで前に落ちてきた。

これに宮中はどよめき合い、天皇も並々ならぬ感心を示した。そこで、天皇から頼政に御衣が与えられることになり、それを大炊御門の右大臣が取り次いで頼政の肩に掛けようとした時に「昔、養由基(ようゆうき、中国の弓の名手)は雲の上の雁を射たという。今の頼政は雨の中で鵺を射た。五月闇の中で勇名を馳せる今宵だな」と感心して話しかけると、頼政は「誰か見分けのつかない夕暮れ時も過ぎたと思いますが」と申し上げて、御衣を肩に掛けて退出した。云々

参考サイト:珍奇ノート(ヌエ)

境内の見どころ

鳥居


人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]

神明神社の鳥居です。

社殿


人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]

神明神社の社殿です。

鏃の写真


人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]
人文研究見聞録:神明神社(榎神明) [京都府]

神明神社の鏃の写真です。

源頼政が鵺を退治した後に奉納したものと伝えられています。

また、境内には鵺に関する記事なども掲載されています。

料金: 無料
住所: 京都府京都市下京区綾小路通高倉西入ル神明町(マップ
営業: 不明
交通: 四条駅(徒歩2分)、阪急烏丸駅(徒歩3分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。