人文研究見聞録:出雲大社の予備知識(詳細情報まとめ) [島根県]

出雲大社に関する沿革・神話・関連知識などの詳細情報をまとめました。

一般的な出雲大社の紹介については こちらを参照:【出雲大社】



概要

出雲大社とは?


人文研究見聞録:出雲大社の予備知識(詳細情報まとめ) [島根県]

出雲大社(いずもたいしゃ)とは、島根県出雲市にある日本神話を起源とする格式の高い神社であり、主祭神に大国主大神(オオクニヌシ)を祀っています。なお、正式名称は「いづもおおやしろ」と言います。

祭神のオオクニヌシは日本神話において、全国を巡って国土を開拓し、農耕・漁業・殖産から医薬の道を開いた神であり、皇祖神であるアマテラスに国土奉還した後は幽界に退き、神事(かみごと、神の世界の政)を司ったとされています。

また、縁結びの神として古くから信仰されており、毎年の旧暦10月の神在月には出雲大社に全国の神々が集まって一年間の神事や人々の縁について相談すると言われています。このことから、旧暦10月に当たる11月末~12月頃には多くの人が参拝に訪れるそうです。

なお、日本神話における出雲大社は「柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築かれた」とあり、社伝によれば 往古は社殿の高さ32丈(96m)あったとされています。また、神から天皇の代になってからも垂仁天皇や斉明天皇の時代に社殿の造営が行われ、平安時代の社殿は16丈(48m)あったとも言われています。


出雲大社の社名・社号


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出雲大社の正式名称は「いづもおおやしろ」とされています。

また、明治時代までは杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたそうです。

なお、出雲大社には以下のような名称・社号があるとされています。

出雲大社の名称・社号一覧


・出雲大社(いずもたいしゃ・いづもおおやしろ・いづもおほやしろ):現在の名称
・出雲宮(いずものみや・いづものみや):『八雲御抄』
・出雲大神宮(いずもだいじんぐう):『日本書紀』
 → 熊野大社を指すという説もある
 → 京都府亀岡市に同名の神社がある(勧請に関して関係性があるとされる)
・出雲国大社:『享保集成総論録』『神国島根』
・出雲石硐之曽宮(いわくまのそのみや):『古事記』
・杵築大社(きづきたいしゃ・きづきのおおやしろ):『延喜式』、明治までの名称
・杵築宮(きづきのみや):『釈日本記』
・杵築神社(きづきじんじゃ):『神国島根』
・城築明神(きづきみょうじん):『口遊』
・杵築大明神(きづきだいみょうじん):『神国島根』
・杵築神宮(きづきじんぐう):『釋日本紀』
・杵築大神宮(きづきだいじんぐう):『和漢三才図会』
・大社杵築大神宮:『国花万葉記』
・天御舎(あめのみあから):『古事記』
・天日隅宮(あめのひすみのみや):『日本書紀』
・天日栖宮(あめのひすみのみや):『出雲国風土記』
『出雲国風土記』
・日本大社(ひのもとたいしゃ):真言宗正林寺蔵版木出
・厳神之宮(いつかしのかみのみや):『日本書紀』
・神之宮(かみのみや):『日本書紀』
 → 熊野大社を指すという説もある


祭神の変遷


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大国主神(大己貴神)
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素盞鳴尊

現在の出雲大社の主祭神は大国主大神(オオクニヌシ)ですが、一時は祭神が素盞鳴尊(スサノオ)だった時期があるとされています。その証拠に、境内の銅鳥居(江戸時代)の柱には「素戔嗚尊者雲陽大社神也(素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり)」と記されています。

そこで、出雲大社の祭神の変遷について以下にまとめてみたいと思います。

・創祀:大国主大神(日本神話の内容から)
 → 神話の中では神殿はオオクニヌシの住処であり、祭主はアメノホヒとされている
  ⇒ 後に宮司となる出雲国造はアメノホヒの子孫
・~平安前期:大国主大神(『出雲国造神賀詞』の内容から)
 → 平安前期まで行われていた出雲国造新任の儀式では『出雲国造神賀詞』が奏上された
  ⇒ この内容に「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」とある
・鎌倉時代:素盞鳴尊(鰐淵寺の縁起の影響)
 → 中世より出雲大社は神仏習合の影響を受けた
 → 当社と関係の深かった鰐淵寺の縁起では出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた
・江戸前期:素盞鳴尊
 → 寛文6年(1666年)に毛利綱広が寄進した銅鳥居に「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記される
・江戸中期~:大国主大神(大已貴神)
 → 鰐淵寺との関係も薄まり、『日本書紀』も読まれるようになった
 → 寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して祭神も改められた
  ⇒ 当時の公式文書も祭神を「大已貴神」と記載しているとされる

参考サイト:出雲大社紫野教会(出雲大社の御祭神がスサノオ尊の時代があった)


出雲大社の沿革


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数々の資料から出雲大社の沿革をまとめると以下のようになります(遷宮を除く)。

・神代:大国主大神が天神に国譲りしたことで神殿が造営される(『記紀神話』)
 → 社伝によれば、往古は社殿の高さ32丈(96m)あり、その後16丈(48m)となったといわれる
・崇神60年:神宝検校のために武諸隅が派遣される(『日本書紀』)
 → この際に宮司の出雲振根が問題を起こして誅殺され、討伐を恐れた出雲臣らが祭を怠るようになる
 → 丹波の氷上に住む氷香戸邊が神託と思われる歌を口ずさみ始めたことから、天皇は祭を再興するよう命じた
・垂仁23年:天皇の皇子・本牟智和気の唖を治すために出雲の神宮を修造する(『古事記』)
 → 本牟智和気が唖(発語障害)であった原因が、占いによって出雲大神の祟りと分かった
 → 天皇に「宮を修造すれば話せるようになる」との神託が下ったことから、本牟智和気と使者を出雲に派遣する
 → 本牟智和気らが出雲に参拝すると唖が治ったことから、使者を派遣して神宮を造らせた
・垂仁26年:神宝検校のために物部十千根大連が派遣される(『日本書紀』)
・斉明5年(659年):出雲国造に神之宮(出雲大社に比定)の修造が命じられる
 → 神魂神社の社伝によれば、出雲国造は これを契機に出雲大社に移住したとされる
 → 熊野大社によれば、この年に熊野大社の造営が行われたとされる
・天平5年(733年):『出雲国風土記』に「杵築大社」として名が載せられる
・天平神護元年(765年):神封61戸を当てる
・延暦17年(798年):出雲国造が杵築大社に移住したとされる
・仁寿元年(851年):神階が従三位、勲等が勲八等となる
・貞観元年(859年):神階が正三位、後に従二位となる
・貞観9年(867年):神階が正二位となる
・延長5年(927年):『延喜式神名帳』に「杵築神社 名神大」として名が載せられる
・寛仁元年(1017年):勅使が種々の御幣物を奉納する
・長元4年(1031年):奉幣使(幣帛を捧げる使者)が差遣される
・文治5年(1189年):源頼朝が神馬一匹を寄進して祈願する
・建久元年(1190年):源頼朝が剣を奉納する
・元弘3年(1333年):後醍醐天皇が王道再興を祈願して神領を寄進する
・康永2年(1343年):出雲国造家が千家家と北島家に分裂する
・文和4年(1355年):後光厳院が兵革を祈願する
・文禄元年(1592年):文禄の役の軍資金調達のために一時縮小される
・慶長2年(1597年):慶長の役の軍資金調達のために一時縮小される
・明治4年(1871年):官幣大社になる
・大正6年(1917年):勅使参向社になる
・昭和28年(1953年):拝殿が焼失する
・昭和34年(1959年):拝殿が復興される

参考サイト:ウィキペディア(出雲大社)コトバンク(出雲大社)延喜式神社の調査(出雲大社)


出雲大社の関連社


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出雲大社の境内外の関連社は以下の通りです。

荒垣内摂社(本殿瑞垣内)

・大神大后神社(御向社):須勢理毘賣命を祀る
・伊能知比賣神社(天前社):蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る
・神魂御子神社(筑紫社):多紀理毘賣命を祀る
・門神社:宇治神・久多美神を祀る

荒垣内摂社(本殿瑞垣外)

・素鵞社(出雲神社):素戔鳴尊を祀る
・氏社:天穂日命を祀る
・氏社:宮向宿祢を祀る
・釜社:宇迦之魂神を祀る
・十九社(左右):八百萬神を祀る

荒垣外摂末社(徒歩圏内)

野見宿禰神社野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命)を祀る
・祓社:祓戸四柱神(瀬織津比咩神・速開都比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神)を祀る
・祓社:祓戸四柱神(瀬織津比咩神・速開都比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神)を祀る
・金刀比羅宮:大物主神を祀る
・都稲荷社:宇迦之御魂神・佐太彦神・大宮能売神・田中神・四神を祀る
・祖霊社:幽冥主宰大神を祀る
神魂伊能知奴志神社(命主社)神産巣日神を祀る(出雲市大社町杵築東182)

荒垣外摂末社(徒歩圏外)

・阿須伎神社(阿式社):阿遲須伎高日子根命を祀る(出雲市大社町遥堪1473)
・大穴持御子神社(三歳社):事代主神・高比賣命・御年神を祀る(出雲市大社町杵築東)
・大穴持御子玉江神社(乙見社):下照比賣命を祀る(出雲市大社町修理免字向地920)
・大穴持伊那西波岐神社:稻背脛命・白兔神(配祀)を祀る(出雲市大社町鷺浦102)
上宮素戔嗚尊・八百萬神を祀る(出雲市大社町杵築北)
下宮天照大御神を祀る(出雲市大社町杵築北)
・出雲井社:岐神を祀る(出雲市大社町修理免)
因佐神社建御雷神を祀る(出雲市大社町杵築3008)
・湊社:櫛八玉神を祀る(出雲市大社町中荒木)
大歳社大歳神を祀る(出雲市大社町杵築北)


古文書に見る出雲大社

「日本神話」と出雲大社


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出雲大社は『記紀神話』の「オオクニヌシの国譲り」を起源とするとされています。

『古事記』『日本書紀』に記される内容は若干違いますが、簡単にまとめると以下のようになります。

オオクニヌシの国譲り


オオクニヌシが出雲の美保岬にいるとき、海の向こうからやってきた小さな神・スクナヒコナと出会った。スクナヒコナは親神のカミムスビにオオクニヌシに協力するよう命じられ、二神で力を合わせて葦原中国(日本の国土)を開拓した。また、人間と家畜の治療法を教え、鳥・獣・虫の災害を防ぐ方法を定めて、やがて天下を治めた。

スクナヒコナが常世に去った後、一人で天下を治めることになったオオクニヌシの前に 海を照らしてやってくる神 が現れた。この神はオオクニヌシのサキミタマ・クシミタマであると名乗り、丁寧に祀れば国造りに協力し、祀らなければ国造りはうまくいかないだろうと言ったので、オオクニヌシは三輪山に祀ることにした。これにより、オオクニヌシは国造りを成した。

この後、天上の高天原に住むアマテラスは葦原中国を見て、この国は私の御子のオシホミミが治めるべきであると言い、神々と話し合って天下を治めるオオクニヌシと国譲りの交渉をすることにした。

最初はアメノホヒが交渉に遣わされたが、オオクニヌシに従って三年経っても報告しなかった。そこで、アメノホヒの子のオオソビノミクマノウシを遣わしたが、父に従って報告せず、これも失敗に終わった。

次にアメノワカヒコを遣わせたが、この神もオオクニヌシの子のシタテルヒメと結婚して八年経っても報告せず、再び失敗に終わった。なお、アメノワカヒコは高天原に遣わされたキジを矢で撃ち殺したことから謀反を疑われ、タカミムスビが心を占うまじないをかけて撃ち返した矢に当たって死んでしまった。

次に武勇に優れたフツヌシとタケミカヅチが交渉に遣わされた。二神は稲佐の浜に降り立ち、地にトツカノツルギを逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、オオクニヌシに国を譲るよう問いかけた。すると、オオクニヌシは子のコトシロヌシが答えると伝えた。

これを聞いた二神はすぐにコトシロヌシを探し出し、国を譲るよう迫った。すると、コトシロヌシは天神の勅命であれば父は国を奉還して国を去るべきだと答え、国譲りを認めて姿を消してしまった。

この後、オオクニヌシの子のタケミナカタが現れて国譲りについては力比べで決めようと提案した。これにタケミカヅチが応えてタケミナカタと争ったが、タケミナカタは全く歯が立たず、恐れをなして逃げ出してしまった。タケミカヅチは これを追いかけて諏訪で追い詰めると、タケミナカタは命乞いをし、諏訪に留まって服従することを誓った。

こうして、オオクニヌシの子が国譲りを認めると、二神は改めてオオクニヌシに国譲りを迫った。すると、オオクニヌシは子らの意見に従って国譲りは認めるが、その代わりに自らの住居として、高天原の御子が住む神殿のように地底に太い柱を立て、空に高々とそびえる神殿を建てるよう提案し、これが成されれば自らは遠い幽界に下がることにすると答えた。

二神は高天原に帰って報告すると、天の神々は出雲の多芸志の浜にオオクニヌシの神殿を建てた。なお、この際に高天原のタカミムスビが神殿を建てることを提案した。この神殿は天日隅宮(アマノミスミノミヤ)と呼ばれ、柱は高く大きく、板は広く厚く、高い橋(長い階段とも)も設けられたという。また、この他にも田、浮橋、天鳥船なども造ることとし、祭主としてアメノホヒを就任させたとも云われている。


『古事記』と出雲大社


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『古事記』に記される出雲大社の記事は以下の通りです。

天之御舎の創建


オオクニヌシは国譲りに応じる条件として「私の住居として、皇孫の神殿のように 地底に太い柱を立て 千木が空高くまで届くような立派な神殿を建ててくれれば、遠い幽界に下がりましょう」と答え、これを以て天津神は出雲の多芸志の浜に"天之御舎(あめのみあらか)"を造った。

ホムチワケの唖と出雲大神の祟り


垂仁天皇の皇子であるホムチワケは、髭が胸元まで伸びても言葉を発すことがなかった。 あるとき、ホムチワケは白鳥の声を聞いて声を発したため、白鳥が言葉を発するキッカケになると思い、人を遣わせて その白鳥を捕えさせたが結局 効果は無かった。

その後、垂仁天皇の夢に神が現れて「私の宮を皇居と同じように綺麗に立て直せば、ホムチワケは言葉を話せるようになるだろう」と告げたので、これを占うと出雲大神の祟りと出た。 そこで、曙立王に誓約をさせて神託を再度占わせ、これが正しいと出ると、ホムチワケに曙立王と菟上王を副えて出雲に派遣した。

一行が出雲で大神に参拝し、宮を造って滞在すると、出雲国造の祖先の岐比佐都美が宮の川下に青葉の木々を立てて飾り、ホムチワケを讃える儀式を行った。すると、ホムチワケが「川下の青葉の山は葦原色許男大神(出雲大神)を祀っている祭場ではないか」と話したので、曙立王と菟上王は喜んで早馬を走らせて天皇に知らせた。

この報告を受けた天皇も喜んで、すぐに菟上王を出雲に向かわせて神宮を造らせた。また、ホムチワケにちなんで鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を定めた。


『日本書紀』と出雲大社


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『日本書紀』に記される出雲大社の記事は以下の通りです。

天日隅宮の創建


天神は葦原中国を平定するためにフツヌシとタケミカヅチを派遣した。二神が出雲に降り立ち、オオナムチ(オオクニヌシ)に「この国を天津神に譲る気はあるか」と問うと、オオナムチは「突然やって来た者に国を譲ることなどできない」と答えた。

二神は天に帰って報告すると、タカミムスビは「オオナムチの言分は道理に適っている。まずは国土奉還の目的を伝えなければならない。我々は現世のものはすべて皇孫(ニニギ)が治め、オオナムチには神事(かみごと)を治めてもらうべきだと考えている。そうなれば、オオナムチの住処として天日隅宮(あめのひすみのみや)を造ろうと思う。この宮は千尋(とても長い)もある栲縄を180も結って組立て、柱は高く大きく、板は広く厚くしよう。また田も作ることにしよう。また、海に遊びに行くための高い橋や浮橋や天鳥船も造ろう。また、天安河には打橋を造り、百八十縫の白盾も造ろう。そして、宮の祭主をアメノホヒに任せよう」と言い、これをオオナムチに伝えるように命じた。

二神が出雲に戻ってオオナムチに伝えると、オオナムチは「これほど丁寧な天神の申し出に背く訳にはいかないだろう。では、
私が治める現世のことは皇孫に任せ、私は現世から退いて幽界の世界を治めよう」と答え、自身の代わりにフナトノカミを差し出して、すぐに瑞之八坂瓊を依り代とし、永久に身を隠してしまった。

出雲の神宝


崇神天皇60年7月、崇神天皇は「武日照命が天より持って来た神宝が出雲大神の宮に収められているという。ぜひ、これを見たいものだ」と詔を発し、すぐに武諸隅(タケモロスミ)を派遣して献上させようとした。そのとき、出雲振根(イズモノフルネ)が神宝の管理を担当していたが、ちょうど筑紫国に行っていたため 使者の武諸隅には会うことができなかった。 そこで、代わりに弟・飯入根(イイイリネ)が対応し、兄に無断で神宝を天皇に献上した。

その後、筑紫から帰って来た出雲振根は、飯入根が朝廷に神宝を献上したと聞いて激怒した。それから年月を経るごとに飯入根への恨みが増し、遂に殺そうと思うようになった。そこで、出雲振根は密かに剣に似せた木刀を造り、飯入根を欺いて止屋の淵への遊行を誘うと、飯入根も疑うことなく これに従った。

止屋の淵へ向かう当日、出雲振根は木刀を帯び、飯入根は剣を帯びていた。止屋の淵に到着すると、出雲振根は飯入根を水浴びに誘い、互いに帯びた剣を置いて水浴びに向かった。そこで、出雲振根は先に上がって飯入根の剣を帯びると、飯入根は驚いて出雲振根の木刀を取った。そのとき、出雲振根が剣を抜いて打ち込もうとすると、飯入根も剣を抜こうとしたが、木刀であったために抜くことが出来ず、そのまま斬り殺されてしまった。

この出来事は後に甘美韓日狹らによって朝廷に報告され、これを聞いた天皇は すぐに吉備津彦(キビツヒコ)と武渟河別(タケヌナカワワケ)を派遣して、出雲振根を誅殺した。すると、出雲臣らは討伐を恐れて出雲大神の祭祀を怠るようになった。この後、丹波に住む氷香戸邊の子が突然「出雲の人が祀る大事な鏡が水底に眠っている…」という旨の歌を歌い始めたという報告があったので、天皇は これを祀らせるよう詔を発した。

神之宮の修繕


斉明天皇5年7月、この年、出雲国造に命じて神之宮(出雲大社に比定)を修繕させた。また、狐が於友郡の役丁の持った葛の末を噛み断って去っり、犬が死人の腕を言屋社に置いた。これは天子が崩御する兆しである。


『出雲国風土記』と出雲大社


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『出雲国風土記』に記される出雲大社の記事は以下の通りです。

出雲郡杵築郷


杵築郷(きづきごう)。郡家の西北28里60歩の所にある。八束水臣津野命(ヤツカミヅオミツノ)が国引きをなさった後に、所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)の宮をお造り申し上げようとして、諸の神々たちが宮の場所に集まり築きなさった。だから寸付という。神亀三年に字を杵築と改めた。

楯縫郡


楯縫と名付ける理由は、神魂命(カミムスヒ)が「私の十分に足り整っている天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の規模が、千尋(ちひろ)もある長い拷紲(たくなわ)を使い、桁梁(けたはり)を何回も何回もしっかり結び、たくさん結び下げて作ってあるのと同じように、この天御鳥命(あめのみとり)を楯部として天から下しなさった。そのとき天御鳥命が天から退き下っていらして、大神の宮の御装束としての楯を造り始めなさった場所がここである」と言い、それで今に至るまで楯や桙を造って神々に奉っている。だから楯縫という。


関連知識

神在祭


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出雲大社では、毎年の旧暦10月に神在祭(かみありさい)が行われます。

この理由は旧暦10月に全国の神々が出雲大社に集まるためとされ、このことから島根県では10月を神在月(かみありづき)と呼んでいます(他所は神無月と呼ばれる)。

この信仰の起源は定かではありませんが、一説に日本神話において現世の政は皇孫が治めるのに対し、神の世界の政である神事(かみごと)はオオクニヌシが治めるよう定められたからだと言われています(『日本書紀』一書の記述より)。

このことから、旧暦の10月に全国から八百万神(やおよろずのかみ)が出雲に集まり、諸々の神事(かみごと)や人々の縁に関する相談が行われるとされています。

出雲大社の神在祭では、旧暦の10月10日の夜に稲佐の浜で神迎神事が行われます。この神事では、龍蛇神の先導によって八百万の神々は出雲に到着し、これより1週間 オオクニヌシの元で会議し、旧暦の10月17日に出雲大社を発って元の場所に帰ると言われています。

なお、2017年においては11月28日(火)~12月4日(月)が旧暦における神在祭の期間に当たり、この1週間に神々と神縁を結ぶことができると信じられていることから、多くの人が訪れるそうです。

参考サイト:神在祭のご案内(出雲大社)


出雲国造家


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出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)とは、上古に出雲国を支配した国造(現在の県知事)で、アメノホヒを始祖とし、出雲氏の長が代々出雲国造の称号と出雲大社の祭祀とを受け継いだとされています。

南北朝時代に入るまで一子相伝であり、康永年間(1340年頃)以降に千家氏(せんげし)北島氏(きたじまし)の二氏に分かれたとされ、一時は争いがあったものの やがて和解し、康永3年(1344年)以降は二つの国造家が並立して幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していたそうです。

近代に入ると、明治時代に出雲大社が内務省神社局の傘下となり、千家氏は出雲大社教、北島氏は出雲教と別々の宗教法人に分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担ったとされます。戦後は神社が国家管理を離れたため、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、千家氏が宮司を担って現在に至るとされています。


神紋


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出雲大社の神紋は「二重亀甲に剣花菱」となっています。

外側の「亀甲紋」は「亀の甲羅」を表しているとされ、出雲地方の神社では多く使用されています。また、一説に これは北方鎮護の神として祀られたオオクニヌシを指していおり、四神相応において北を守護する玄武の印とも言われています。

内側の「剣花菱」は古来より神の依代を意味しているとされ、一説に 中央の丸は「鏡」、花房は「勾玉」、剣は「剣」を指しており剣・鏡・勾玉を示しているとも言われているようです。

参考サイト:出雲大社・御朱印神紋と社家の姓氏


遷宮


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遷宮(せんぐう)とは、神殿を改築・修理するときに神体を別の本殿に移すことを指し、定期的な遷宮は式年遷宮(しきねんせんぐう)と呼ばれています。

出雲大社でも遷宮を行うことで知られ、出雲大社では約60~70年のペースで行われているそうです。なお、遷宮にも種類があり、正式な規模に満たない遷宮を「仮殿式造営遷宮」、正式な規模で行われる遷宮を「正殿式造営遷宮」と言い、近代の遷宮は「修神殿遷宮」と呼ばれています。

2013年には伊勢神宮の式年遷宮とのタイミングが重なったことで話題になりましたが、出雲大社の遷宮は不定期で行われているため、式年遷宮と呼ぶには相応しくないと言われています。

なお、出雲大社の遷宮の歴史は以下の通りです。

上古

・垂仁23年:『古事記』に遷宮の記録がある
・斉明5年(659年):『日本書紀』に遷宮の記録がある

平安

・弘仁13年(822年):仮殿式造営遷宮
・永延元年(987年):正殿式造営遷宮
・長元9年(1036年):正殿式造営遷宮
・康平5年(1062年):修仮殿行遷宮
・治暦3年(1067年):正殿式造営遷宮
・天仁元年(1108年):修仮殿行遷宮
・永久3年(1115年):正殿式造営遷宮
・康治元年(1142年):修仮殿行遷宮
・久安元年(1145年):正殿式造営遷宮
・安元元年(1175年):仮殿式造営遷宮
・建久元年(1190年):正殿式造営遷宮

鎌倉

・嘉禄3年(1227年):仮殿式造営遷宮
・宝治2年(1248年):正殿式造営遷宮
・弘安5年(1282年):仮殿式造営遷宮
・正中2年(1325年):仮殿式造営遷宮

南北朝・室町・安土

・元中3年(1386年):仮殿式造営遷宮
・応永19年(1412年):仮殿式造営遷宮
・嘉吉2年(1442年):仮殿式造営遷宮
・応仁元年(1467年):仮殿式造営遷宮
・文明18年(1486年):仮殿式造営遷宮
・永正16年(1519年):仮殿式造営遷宮(尼子経久による)
・天文19年(1550年):仮殿式造営遷宮
・天正8年(1580年):仮殿式造営遷宮(毛利輝元による)

江戸

・慶長14年(1609年):仮殿式造営遷宮
・寛文7年(1667年):正殿式造営遷宮
・延享元年(1744年):正殿式造営遷宮
・文化6年(1809年):修神殿遷宮

明治・昭和・平成

・明治14年(1881年):修神殿遷宮
・昭和28年(1953年):修神殿遷宮
・平成25年(2013年):修神殿遷宮(伊勢神宮の式年遷宮と重なる)


出雲大社教


人文研究見聞録:出雲大社の予備知識(詳細情報まとめ) [島根県]

出雲大社教(いずもおおやしろきょう)とは、明治6年(1873年)に当時 出雲大社の大宮司であった千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団であり、現在では出雲大社の社務所内に本部を構える教派神道(神道十三派)の一つとされています。

なお、日本は江戸時代まで神仏習合という形で神社と寺院が混淆しており、当時は寺院が圧倒的な権力を誇っていたとされます。それが明治以後、神仏分離令によって分けられ、国家としては日本古来の神道を国教として国民統合の支柱とする「国家神道」という思想の元、神道が広められるようになったとされています。

ただし、政府は「神道は宗教ではない」とする「神社非宗教論」を以って、憲法における「信教の自由」を回避したことから、「神道は非宗教」という認識となったそうです(昭和20年の神道指令によって終了)。

しかし、古来より宗教として神道を布教してきた神社のいくつかはこれに反対し、神道系の宗教団体を設立していったとされます。その際、政府は信者数などの一定の条件を満たした教派を独立教派として公認したとされ、そのうちの一つが「出雲大社教」であるとされています。

以来、出雲大社教では出雲大社を宗祠とし、出雲信仰を布教するために各地に御師を派遣したそうです。それによって出雲大社の分祠が北海道から沖縄までの全国各地に広まり、現在では海外のハワイにまで及んでいるとされています。

全国の出雲大社分祀についてはこちらを参照:【全国の出雲大社分祀】

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。