人文研究見聞録:温泉寺(有馬町) [兵庫県]

兵庫県神戸市の有馬温泉地区にある温泉寺(おんせんじ)です。

奈良時代に行基によって創建された寺院であり、本尊に薬師如来を祀っています。


寺院概要

縁起

案内板によれば、奈良時代の神亀元年(724年)に僧・行基(ぎょうき)が温泉で人々を病から救うために創建したことに始まるとされています。

その後、鎌倉時代には僧・仁西(にんさい)が再興し、安土桃山時代には北政所(ねね)が再建したとされますが、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となったため、現在は旧温泉寺の奥の院である清涼院のみが残っています。

なお、有馬に伝わる温泉寺の創建伝承は以下の通りです。

温泉寺の創建伝承

神亀元年(724年)、行基が伊丹の昆陽池を掘っていたときのこと、一人の身体に腫物ができて苦しんでいるという病人と出会い、"万病に効く有馬温泉に連れて行って欲しい"と懇願された。

哀れに思った行基は病人を背負って有馬温泉に向かい、道中に病人に魚を与えたり、口で膿を吸い出してあげたりなど、病人の頼み事を聞きながら、荒れ果てた有馬温泉に辿り着いた。

すると、病人が金色荘厳な薬師如来の姿となって現れ、行基に"有馬温泉の復興"を託して紫雲に乗って東方の彼方に飛び去った。これに感嘆した行基は如法経を書写して泉底に埋め、薬師如来の等身大の像を刻み、その像を納めるために薬師堂(温泉寺)を創建した。

参考サイト:有馬温泉観光協会公式サイト有馬温泉・三恩人・行基菩薩

本尊

人文研究見聞録:温泉寺(有馬町) [兵庫県]

・薬師如来(やくしにょらい):東方の浄瑠璃世界の主で、12の誓願を起こし、生ある全てのものを救う仏

関連知識

温泉寺にまつわる伝説

行基

温泉寺にまつわる伝説をまとめました。

有馬温泉寺縁起

昔、行基(ぎょうき)という聖が摂津国の昆陽寺(こやでら)に住んでおり、貧困に苦しむ人々を助けていたため、皆から菩薩として慕われていた。

あるとき、行基は有馬に荒れ果てた温泉があることを知った。この温泉は病気や怪我によく効くが、険しい山中にあったことから訪れることが難しかった。そこで、行基は山中に道を切り開いて寺を建て、病気や怪我に苦しむ人々を温泉で救おうと考えた。

早速 有馬に向かった行基が山道に入ったところ、全身を瘡や腫物で覆われた男と出会った。その男は うめき声をあげながら今にも力尽きようとしており、どうやら有馬の温泉に向かう途中のようだった。これを哀れんだ行基は男に飯を差し出したが、男は「新鮮な魚のあつもの(煮物)しか食べられない」と訴えた。

そこで行基は長洲の浜に行って新鮮な魚を捕え、これを調理して男に食べさせようとすると、男は「塩で味付けして欲しい」と言うため、行基はその通りにして男に食べさせた。なお、その魚の半身を昆陽池(こやいけ)に放つと、一つ目の魚として蘇り、今でも その子孫が生きていると伝えられている。

また、男の身体の腫物から出る膿には蛆虫が湧いており、男は行基に「この膿に湧いた蛆虫を舌で舐め取って欲しい」と言った。行基が言われた通りに男の腫物を舐めて蛆虫を取り除いてやると、突然 男の身体が金色に輝きはじめて眩しい光を放った。

そして、その光の中から薬師如来が現れ、姿を変えて行基を試していたことを伝えるとともに、行基の慈悲深い行いを誉め讃えて「有馬温泉までの道を開き、病気や怪我に苦しむ衆生を助けてあげなさい」と告げると、虚空の中に消えていった。この光景に感銘を受けた行基は、告げに従って有馬の山に登ると、山中にある温泉を見つけることができた。

そこで、石を刻んで薬師如来を象った仏像を造り、法華経を書写して その両方を温泉の湧き出る泉の底に沈めた。また、そこに立派な寺を建てて、有馬までの道を切り開いた。そして、行基は薬師如来の石像に「温泉に入る人々が病を癒し、煩悩の垢さえも洗い落として悟りに至りますように」と祈ると、有馬温泉に多くの人々が訪れるようになり、やがて万病に効く温泉として全国に知れ渡ったという。

参考サイト:ひょうご歴史ステーション(有馬温泉寺縁起)

昆陽池の鮒(薬師如来の導き)

奈良に都があった頃、行基(ぎょうき)という高僧が全国を旅しており、その道中で溜池や水路を造って人々を助けながら仏の教えを広めていた。

行基が猪名野(いなの)を歩いていたとき、道端に老人が倒れていることに気付いて声をかけると、老人は「病気を治すために有馬に向かっていたが、途中で力尽いて倒れてしまった」と答えた。

また、老人が「もう三日も食べていないので、何か食べるものが欲しい」と言うので、行基は持参していた干し飯(ほしいい)を差し出したが、老人は「生魚でないと食べられない」と言う。そこで、行基は長洲の浜まで行って漁師に生魚を分けてもらい、この魚の片身を調理して老人に食べさせた。そして、残った片身を昆陽池(こやいけ)に投げこむと、魚は片身のまま泳ぎ始めて池の中に消えていった。このため、昆陽池には片身の魚の子孫である"片目の鮒"が、今でも住んでいるという伝説がある。

その後、行基は老人を背負って有馬温泉に向かったが、その途中で苦しみだした老人は「身体の膿んだ腫物に蛆虫が湧いて痛くてたまらない、どうか膿を舐めて蛆虫を吸い出して欲しい」と言い出した。これを哀れに思った行基は、老人の膿んだ腫物を舐めて蛆虫を吸い出してやると、その舐めたところが次々に金色に輝きはじめ、やがて光り輝く仏の姿に変わっていた。

これに気付いた行基が仏に対して伏し拝むと、仏は「私は薬師如来(やくしにょらい)です。お前を試すために病気の老人に姿を変えていましたが、その慈悲深さはよく分かりました。これから有馬へ行き、病気の人々を救ってやりなさい」と告げた。行基は薬師如来の告げに従って有馬に向かい、多くの病人を救うべく荒れ果てた温泉を立て直した。また、行基は目の前に姿を現した薬師如来の像に刻み、御堂を建ててこれを祀った。これが今の温泉寺である。

参考サイト:ひょうご歴史ステーション(昆陽池の鮒)

境内の見どころ

本堂

人文研究見聞録:温泉寺(有馬町) [兵庫県]

温泉寺の本堂です。

温泉寺石造五輪塔

人文研究見聞録:温泉寺(有馬町) [兵庫県]

温泉寺にある石造五輪塔です。

鎌倉時代に造られた五輪塔とされますが、平清盛が有馬温泉に滞在した時に建立されたという伝説があるそうです。

なお、案内板による解説は以下の通りです。

この二基の五輪塔は鎌倉中・後期作の石造文化財だが、元禄14年(1701年)の『摂陽群談』は「平相国清盛塔」と「慈信坊尊恵塔」だと記し、ともに平清盛が有馬温泉に滞在した時に建立したものだと説明している。

『平家物語』『古今和歌集』『温泉寺縁起』などによると、慈信坊尊恵は承安年間(1171~75年)に清澄寺(宝塚市)に住んでいた時、幾度も閻魔大王に招かれて あの世に赴いたと伝えられている。

閻魔の庁で大輪田泊での清盛主催の千増供養が話題になった時、閻魔大王は清盛を平安中期の良源(元三大師)の生まれ変わりだと尊恵に教えた。尊恵は後に そのことを清盛に話し、清盛が喜んだこと。また閻魔は尊恵に法華経を五重の箱に入れて閻魔王府の東門に当たる聖地・有馬の温泉山に納めるよう伝えたことなど、尊恵には有馬や清盛に関わる冥府訪問の物語が伝わっている。

歴史的には、平安末期の土砂崩れで有馬温泉は中絶し、清盛に関して入湯の記録や伝説はない。兵庫の清盛塚十三重の石塔建立のように、清盛没後およそ百年のころに供養のために建てられた温泉寺の五輪塔に、尊恵の有馬の伝説が結びついて、江戸前期に『摂陽群談』のいう解説が信じられていたのであろう。

料金: 無料
住所: 兵庫県神戸市北区有馬町1643(マップ
営業: 終日開放
交通: 有馬温泉駅(徒歩9分)

公式サイト:
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。