人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

新潟県の弥彦村には、県内屈指のパワースポットである彌彦神社があることで有名ですが、この他にも弥彦山を中心に様々な民話や伝説が残されているようです。

そこで、弥彦村に因んだ民話・伝説を集めてみました。なお、彌彦神社の祭神である天香山命(彌彦大神)にまつわる伝説については「彌彦神社にまつわる神話・伝説」をご覧ください。

参考サイト:弥彦浪漫


弥彦山の酒呑童子伝説


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

弥彦山周辺には、平安時代に大江山に住んでいた鬼として知られる酒呑童子(しゅてんどうじ)の出生伝説がある。

この伝説によれば、酒呑童子は天暦2年(948年)に蒲原郡砂子塚(現・西蒲原郡分水町砂子塚)で誕生したと伝えられ、幼名を外道丸(げどうまる)と言った。両親は貴族の血を引く高貴な人であったが、外道丸は生まれつき容姿が美しく、体格もたくましくあり、知恵にも優れていたが、幼少の頃から乱暴な性格であった。

10歳になると、この乱暴ぶりが益々酷くなったため、両親は心配して外道丸を稚児として国上寺に送り出し、ここで仏道や学問を以って修行させることに決めた。なお、国上寺とは和銅2年(709年)に彌彦大神の神託によって建立された越後最古の古刹(古い寺院)であり、稚児とは神社の祭礼の際に給仕に使われる少年のことを指す。

稚児となった外道丸は乱暴な働きを改め、熱心に仏道と学問に励むようになったが、外道丸の容姿が大変 美しかったため、その評判が越後中に広まることになった。なお、稚児たちが彌彦神社へ通う道を「稚児の道」と呼ぶが、その道すがらには外道丸を目当てにする娘達が集まり、外道丸の振袖の袂(たもと)には沢山の恋文が投げ入れられたという。

外道丸は娘達には目もくれず、一筋に仏道と学問に励んでいたが、16歳になった頃に"近郷の若い娘達が奇病に罹って死んでしまう"という噂が立ち、それは"外道丸に恋い焦がれた娘達が、叶わぬ恋に悩んだ挙句に狂い死んだ"と言われるようになった。

このような噂を聞いた外道丸は、これまで放置していたツヅラに一杯の恋文を焼き捨ててしまおうと思った。そこで、ツヅラのフタを開けると異様な煙が吹き出し、外道丸の美しい顔は見る見るうちに無惨な鬼の形相と化してしまった。

これにより、外道丸は修行を止めて、信州・戸隠の方へ飛び去ってしまったという。なお、国上寺の付近には寺を追われた外道丸が岩屋に隠れ住んだという場所が残っており、修行を止めた後に数々の悪行に手を染めて人々を悩ませたとも云われている。

また、後に鬼と化した外道丸は酒呑童子と呼ばれ、長岡の森立峠(もったてとうげ)で茨木童子(いばらぎどうじ)らを家来にして盗賊の首領になり、丹波国の大江山の岩屋を根城として京の都を荒らし回った。これに対して時の帝は酒呑童子討伐の勅命を下し、命を受けた頼光と頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)によって退治されたという伝説は有名である。

一説によれば、酒呑童子は越後国の鍛冶屋の息子であり、母の胎内で16ヶ月を過ごしたために産まれながら歯と髪が生え、すぐに歩くことができ、すぐに5、6歳程度の言葉を話したとされる。また、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さと異常な才覚を兼ね備えていたことから、周囲から「鬼っ子」として扱われ疎まれていたとも云われている。

また、『前太平記』によれば、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったとされ、また、「鬼っ子」として疎まれたことから寺に預けられたが、外法の使い手であった住職から外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もあるとされる。

そのほか、和納村(現・新潟県新潟市)では、妊婦が村の小川で獲れる「とち」という魚を食べた場合、産まれた子供が"男なら大泥棒"、"女なら淫婦になる"と云われており、その魚を食べたある女の胎内に16ヶ月宿った末に生まれた子供が酒呑童子だという伝承があるされる。なお、和納村には童子屋敷、童子田など、酒呑童子にまつわる地名も残されている。

湯神社の由来


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

今を去ること一千年の昔、弥彦に権九郎という猟師が住んでいた。

ある年の秋の日、朝早くから弥彦山を駆け廻ったが、あいにくウサギ一匹、山鳥一羽すら獲ることができず、疲れ果てて林中に入って行くことにした。

ぼんやりと山道を歩いていると、突然 大きな羽音を立てて一羽の山鳥が飛び立ったので、権九郎は素早く矢を放ったが、矢は山鳥を傷付けただけで手負いのまま飛び去ってしまった。

それでも諦めきれずに、林中を山鳥の飛び去った方向に進んでいくと、やがてキレイな池に辿り着いた。

権九郎は、ノドの渇きを癒そうとして生い茂る草をかき分けつつ池に近寄ると、その池からは湯が湧いており、鳥獣たちが湯浴みをしている姿が見えた。

それを見た権九郎は、驚きのあまり声無く茫然と眺めていたが、やがてハタと膝(ひざ)を打ち、身に着けていた衣類を脱いで、静かに池に身を沈めることにした。

この池の湯加減はちょうど良く、一日の疲れがみるみる取れていき、さらに山中を廻っている間に受けた傷も 見る見るうちに回復していくのが分かった。

この後、権九郎の話を聞いた村人たちは池に向かい、先を争って入浴した。すると、この素晴らしい効果が たちまち評判になり、やがて「弥彦の霊泉」として遠近に その名が響き、大層な賑わいを呈するようになった。

かくして、村人たちは彌彦神社の神官に頼んで、この池の傍の大岩を背に神社を建立し、お湯の神・薬の神・熊ケ谷集落の守護神として、大穴牟延命(オオナムチ)・少彦名命(スクナヒコナ)の二神を祀ることにした。

そして、神社の名も「湯神社」と称して深い信仰を捧げ、弥彦霊泉は後にも益々発展していったという。

詳しくはこちらの記事を参照:【湯神社(石薬師大明神)】

聖人清水


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

彌彦神社門前町の旧家林部宅の裏には、「聖人清水(しょうにんしみず)」と呼ばれる井戸がある。

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、承元元年(1207年)に起こった承元の法難(じょうげんのほうなん)に伴い、35歳の時に越後の国府(現・上越市五智)に配流の身となった。

そこで、親鸞聖人は越後国在住中に彌彦神社を参拝し、その時に滞在したのが当地の庄屋・林部四郎左衛門の宅であった。なお、この一帯は昔から堅い岩盤で覆われており、水不足に悩まされることが多かった。

ある日、付近の川から水を汲み上げて運ぶ老女を姿を見た親鸞聖人は、これを哀れんで林部宅の裏の竹林に赴き、その一隅を持参した杖で突いて仏に念じると、たちまち水がこんこんと湧き出してきた。このことから、弥彦の人々は、この親鸞聖人の徳を讃えて、この清水を「聖人清水」と呼ぶようになったと伝えられている。

なお、親鸞聖人が彌彦神社参拝の折に『願はくは 都の空に墨染の 神吹き返せ 椎の下風』という歌を詠んだとされ、親鸞聖人が林部家に滞在した際に使ったとされる「鍋」は、麓の廣福寺(こうふくじ)に納められたと云われている。

また、親鸞聖人は越後国に7年間滞在して各地に伝説を遺したとされ、後に常陸国(現・茨城県)に移ったとされている。

詳しくはこちらの記事を参照:【親鸞聖人清水】

親鸞聖人の像伝説


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、承元元年(1207年)に起こった承元の法難(じょうげんのほうなん)に伴い、35歳の時に越後の国府(現・上越市五智)に配流の身となった。

その後、親鸞聖人が弥彦村にて滞在したのが当地の庄屋・林部四郎左衛門の宅であった。親鸞聖人の朝夕の給仕を行っていた市左衛門は、この間に化導を受けて熱心な信徒となり、別れた後も東国や都に赴いて親鸞聖人の教えを受けたという。

寛元3年(1245年)、親鸞聖人が73歳の時に市左衛門が上京し、布教のために再び弥彦に赴くよう頼んだが、高齢のために適わぬとして、代わりに自ら刻んだ自像を与えられた。これに感喜した市左衛門は、さっそく弥彦に持ち帰って同志達に披露し、一同共に信心を固くしたという。

その後、神社周辺で仏法が憚られる時代になった時には、この像は紙に包まれて天井に吊るされて放置されていたが、明治初年に岩室村石瀬の浄泉寺に迎えられ、現在は丁寧に祀られているとされる。

また、弥彦周辺に社参に訪れた親鸞聖人が、祈願成就のために自らの木像を半体まで彫っていたところ、伊夜比古の神(彌彦大神)の化身の老人が現れて親鸞の話を聞き、祈願が叶うように残りの半体を彫ったという伝説があるという。

妙多羅天女と婆々杉


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

彌彦神社の北の宝光院の阿弥陀堂に安置される妙多羅天女像(みょうたらてんにょぞう)には、このようないわれがある。

この妙多羅天女は、彌彦神社の鍛匠(鍛冶職の家柄)の黒津弥三郎の祖母であったという。なお、黒津家は彌彦大神の来臨に随従して紀州熊野から当地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄であった。

白河院の御代である承暦3年(1079年)のこと、彌彦神社の造営の際に上棟式の日取りについて鍛匠と工匠の間で争いが起こった。その結果、弥彦庄司・吉川宗方によって、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしとの決定が下された。

これを知った黒津弥三郎の祖母は工匠を怨み、その怨念が悪鬼に変じて吉川宗方や工匠に祟りを為した。また、悪鬼となった祖母は留まることを知らず、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねたという。

その後、悪鬼は弥三郎が狩りから帰ってくるところを待ちうけて、その獲物を奪おうとすると右腕を切り落とされてしまった。また、悪鬼は家に帰って弥三郎の長男・弥次郎をさらおうとしたところ、弥三郎に発見されて未遂に終わった。

このことから、姿を消した祖母はさらに物々しい鬼の姿となり、雲を呼び、風を起こして、天高く飛び去った。なお、これ以後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山など、諸国を自由に飛んで悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と呼ばれて人々に恐れられたという。

それから80年の歳月を経た保元元年(1156年)のこと、当時の弥彦で評判高い高僧の典海大僧正が、山の麓の大杉の根方に横たわっている老婆を見つけた。典海は老婆の異様な形態を怪しく思って話しかけると、それは弥三郎の祖母であるということが分かった。

これに驚いた典海大僧正は、老婆に善心を取り戻させるべく説教を始め、さらに「秘密の印璽」と「妙多羅天女」の称号を与えることにした。すると、この説教を受け入れた老婆は「今からは神仏の道を護る天女となり、以後は世の悪人を戒め、善人を守り、幼い子らを守り育てることに尽力しよう」との大誓願を立て、神通力を発揮して誓願の通りに働いたという。

その後、妙多羅天女は大杉の根元を居に定め、悪人と称された者たちが死ぬと、その死体や衣類を奪って大杉の枝に掛け、世人の見せしめにしたと云われ、この大杉も「婆々杉」と呼ばれるようになったと云う。

また、弥彦山の山頂付近には老婆の仮住居の跡と云われる「婆々欅(ばばけやき)」や、老婆が この世を去ったと云われる「宮多羅(みやたら)」という地もあり、婆々欅は弥彦の農民が雨乞祈願するときには必ず鉈目を入れたと云われている。

詳しくはこちらの記事を参照:【宝光院】

キツネの恩返し


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

昔、境江の利兵衛の屋敷裏の森に夫婦のキツネが住んでた。また、利兵衛の息子の八百松は、そのキツネの夫婦と親しくしており、暇さえあれば遊び戯れて可愛がっていた。

八百松が病気で床に臥せている時、看病していた母に「自分が病気で苦しんでいるのに裏の狐は何もしてくれない」と訴えたが、母は「いくら仲良しでも相手は畜生だもの」と答えて八百松をなだめた。

その翌朝、屋敷の勝手に2匹の大きな鯉が置かれていた。これはきっと話を聞いていたキツネが届けた見舞であると思った八百松は、喜んで その鯉を食べて まもなく病気も治ったという。

ある時、母キツネが幼い子キツネを残して死んでしまったので、気の毒に思った利兵衛の家の者によって世話が掛けられるようになった。

すると、やがて村の人々の間で"キツネの嫁入りがあった"という評判が立った。そこで、八百松はキツネの穴に行って見ると、雄キツネが左手で片目を押さえながら出てきて、八百松の前にうずくまった。

その後ろから出てきた雌キツネは片目が不自由であったが、八百松が「片目が見えなくとも、子供を可愛がって育てるなら立派な嫁だ」と言うと、2匹は尾を振って喜んだ。その後、八百松が嫁を貰ったとき、キツネ達が祝に鴨2羽を届けた。

森が伐られたころからキツネ達の姿は見られなくなったが、この穴は今でも残っているという。

カマイタチ


人文研究見聞録:弥彦村の民話・伝説(まとめ)

弥彦では、"鎌鼬(かまいたち)にかかった"という話を耳にすることが多いという。

これは、何かに躓いたり、転んだはずみに、手や足の一部が骨まで見えるほど裂けてしまうが、出血もなく、痛みもさほどではないという不思議な現象のことを指す。

この現象は昔から"鎌鼬(かまいたち)"と呼ばれて恐れられており、目に見えないイタチのような妖怪の仕業だと考えられている。なお、鎌鼬は越後七不思議の一つに数えられており、信越地方に多いとも云われており、鎌を持ったイタチの姿で描かれる古絵図もある。

また、『北越奇談』には「弥彦山から国上山へ向かう所に"黒坂"という場所があり、そこで転んだ者は必ず この不思議な目にあう」と書かれているという。ただし、現在では"黒坂"が何処を指すのかは分かっていない。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。