人文研究見聞録:陰陽師とは?(陰陽師の概要と歴史まとめ)

陰陽師には、陰陽道の呪術を駆使した魔法使いの様なイメージがあります。

しかし、その実態は国家の機関に属し、占い・暦・祭祀を司ってきた官人(公務員)とされています。

その一方、伝説めいた人物や逸話も多数存在していることも事実です。

そこで、ここに陰陽師に関する概要・歴史・人物などについて まとめておきたいと思います。



陰陽師の概要

陰陽道とは?


人文研究見聞録:陰陽師とは?(陰陽師の概要と歴史まとめ)

陰陽道(おんみょうどう)とは、古代中国の自然哲学思想、陰陽五行説を起源とし、それを日本で独自に発展させた呪術や占術の技術体系を指すとされています。

発祥は仏教と道教が伝来した5~6世紀(古墳~飛鳥期)と考えられており、中国の陰陽五行説の概念を軸に天文学・暦学・易学などの自然哲学を付随させ、さらに神道・道教・仏教など様々な宗教の影響を受けて、日本独自の思想・呪術体系として発展していったとされます。

広義には、陰陽道を扱う陰陽師集団のことも指すとされ、近世に神道と習合したことから、現在では宗教としても扱われているようです(江戸時代に土御門神道となり、現在は福井県おおい町に本庁を置く天社土御門神道として存在する)。

詳しくはこちらの記事を参照:【陰陽道とは?】


陰陽師とは?


人文研究見聞録:陰陽師とは?(陰陽師の概要と歴史まとめ)

陰陽師(おんみょうじ)とは、天武朝に設置された陰陽寮に属する古代日本の官職のひとつであり、当初は、占筮、地相、天体観測、占星、暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻のみを職掌としていたとされます。

また、当初は「陰陽師」は「陰陽寮において占いや地相などを職掌とする方技(技術系の官人)」を指す呼称とされていましたが、後に律令の規定を超えて、占い、呪術、除霊、祭祀などを行うようになったことから、広義には「陰陽寮に属する全ての方技」を指す呼称になったとされています。

さらに、中世以降は民間にも非官人の陰陽道使いが数多く現れたことから、「陰陽道を扱う者」を「陰陽師」と呼ぶようになったとされ、加えて 詐欺まがいの者も多かったことから、その呼称に胡散臭いイメージが定着したとも言われています。

そのため、陰陽師と言えど その定義にはいくつかあり、大きく分けて「官人(役人)」と「非官人(民間人)」の陰陽師に分かれるものと思われます。なお、後者は「声聞師(しょうもじ)」とも呼ばれていたようです。


陰陽寮とは?


陰陽寮(おんみょうりょう)とは、律令制において中務省に属する機関のひとつであり、天武朝に設置されたことに始まり、その後 養老律令において本格的に体制を整えたとされています。

この陰陽寮には、長官に当たる陰陽頭(おんみょうのかみ)を筆頭とする行政官(事務職)、専門職を担当する方技(技術職)、その下で技術を学ぶ修習生、その他 庶務職が所属していたとされます。

なお、飛鳥時代から江戸時代までは具体的に機能していたとされますが、明治維新の後、国家の近代化を目指す日本政府の意向にそぐわないため、時の陰陽頭である土御門晴雄の死を以って廃止したとされています。

陰陽寮の職員


行政官(事務職)

・陰陽頭(おんみょうのかみ):陰陽寮長官(定員1名)
 → 陰陽寮を統括し、天文、暦、風雲、気色のすべてを監督する
 → 異常発生時に極秘に上奏(天文密奏)、新年の暦を調進(御暦奏)、占筮・地相の結果を上奏する職務
・陰陽助(おんみょうのすけ):陰陽寮次官(定員1名)
 → 陰陽頭の補佐業務を行う職務
・陰陽允(おんみょうのじょう):判官(定員1名)
 → 寮内を糾見し書類の審査など寮内事務全般の管理を行う職務
・陰陽大属(おんみょうのたいぞく):上級主典(定員1名)
 → 公文書の記載・読上げなどの記録実務を行う職務
・陰陽少属(おんみょうのしょうぞく):下級主典(定員1名)
 → 大属を補佐する記録実務を行う職務

方技(技術職)

・天文博士(てんもんのはくじ):天文道の主要担当者(定員1名)
 → 天文の気色を観測し、異変があれば外部に漏れぬようこれを密封する職務
 → 修習生である天文生の指導も行った
・陰陽博士(おんみょうのはくじ):陰陽道の主担当者(定員1名)
 → 陰陽生10名を指導する教官
・陰陽師(おんみょうじ):占筮(吉凶を占う)・地相(方位を観る)の専門職(定員6名)
・暦博士(れきのはくじ):暦道の主要担当者(定員1名)
 → 暦の作成・編纂・管理を担当する職務
 → 暦生10名を指導する教官
・漏刻博士(ろうこくのはくじ):時間管理の主要担当者(2交代制で定員は2名)
 → 漏刻(水時計)のその目盛りを読み時刻を管理する職務

修習生(学生)

・天文生(てんもんのしょう):天文博士に天文道を学ぶ修習生(定員10名)
・陰陽生(おんみょうのしょう):陰陽博士に陰陽道を学ぶ修習生(定員10名)
・暦生(れきのしょう):暦博士に暦道を学ぶ修習生(定員10名)

庶務職 (雑務全般)

・守辰丁(しゅしんちょう):時報担当の実務を行う(定員20名)
 → 漏刻博士の下で漏刻を測り、毎時ごとに太鼓や鐘鼓の鳴りものを打ち鳴らす
・使部(じぶ):各省共通で配置される庶務職(定員20名)
・直丁(じきちょう):各省共通で配置される労務職(定員2名)


陰陽師の歴史

飛鳥~奈良時代(前史を含む)


・継体天皇7年(512年)、百済より五経博士が来日する
・欽明天皇15年(554年)、医博士・易博士・暦博士が来日する
・推古天皇10年(602年)、百から僧・観勒(かんろく)が来朝し、暦本・天文地理書・遁甲方術書を献上した
 ・そこで聖徳太子をはじめとする官僚らに陰陽五行説を含む諸学を講じたとされる
  ・以後、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになったという(後に元嘉暦が官暦として採用されるなど)
 ・陰陽五行説に中国の占術・天文学や神道・仏教・道教などの要素を取り入れ、日本固有の「陰陽道」が誕生する
  ・ただし、「陰陽道」という語はまだなかったとされる(平安期から「陰陽道」と称されるようになったとも)
  ・この時代で陰陽道に長けていたものは「陰陽家」と呼ばれ、陰陽師と区別されることがある
・推古天皇12年(604年)、聖徳太子によって「十七条憲法」「冠位十二階」が制定される
 ・この十七条憲法と冠位十二階にも、陰陽五行思想などの影響が見られる部分があるとされる
・推古天皇15年(607年)、遣隋使の派遣が始められ、中国との国交が盛んになる
・斉明天皇6年(660年)、新羅と唐が百済を滅ぼす
 ・百済は国家滅亡となったため、半島の陰陽家が日本に亡命したとされ、それに伴って思想や技術が伝わったとも
・天武天皇元年(672年)、壬申の乱が起こる
 ・大海人皇子(後の天武天皇)は、戦の際に自ら栻(ちょく)を取って占うほど天文や遁甲の達人だったとされる
・天武天皇4年(675年)、官人のための病院である「外薬寮(典薬寮)」を設置する
 ・その際、呪文や呪符で病魔を祓う「呪禁師(じゅごんし)」を配置したという
・天武天皇4年(675年)、「陰陽寮(おんみょうりょう)」を設置し、「陰陽師」を官職とした
 ・当時の陰陽師は、占筮、地相、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻のみを職掌としたとされる
 ・同年、日本初の天文台(占星臺)を設置したとされる
 ・陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理した
  ・陰陽寮の修習生以外の一切の部外者が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止した
  ・天文観測や時刻測定に関わる装置、陰陽諸道に関する文献について、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁止した
  ・陰陽寮内部の者であっても私的所有も禁じたとされる
・天武天皇13年(684年)、都の造成に伴って、陰陽師ら専門家に視察をさせた
・飛鳥末期~奈良期にかけて、道教、密教、陰陽道を修めた僧が現れ、修験道がにわかに体系化されて行ったとされる
 ・修験道の開祖・役小角(634~701年)は、これらの術を以って鬼神や神までも使役したという伝説がある
・官人の陰陽師に対し、非官人の陰陽師も出てくるようになったと云われる
 ・官人を「宮廷陰陽師」、非官人で僧の資格を持つ者を「法師陰陽師」と呼ぶとされる
  ・「宮廷陰陽師」は朝廷への奉仕に従事したとされ、朝廷から求められる以上の能力は有さなかったとされる
  ・「法師陰陽師」は諸宗教の思想の影響もあり、「呪術」「妖術」「仙術」など扱ったとされる
・法師陰陽師が台頭すると、民衆に教えを説く者や、貴族と癒着して占いや呪殺を請け負う者も現れたという
 ・法師陰陽師を脅威とみなした朝廷は、それらを排斥すると共に、宮廷陰陽師にも呪術などを習得を解禁したという
  ・この際、法師陰陽師にスパイとして弟子入りする宮廷陰陽師も現れたと云われる
・養老元年(717年)、吉備真備阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐した
 ・吉備真備・阿倍仲麻呂は、唐で陰陽道を学び、既存の陰陽道を発展させたとも云われる
・養老2年(718年)、養老律令において、中務省の内局である小寮としての「陰陽寮」が設置された
 ・天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置され、公的に式占を司ることになった
・天平7年(735年)、吉備真備が帰朝する
 ・吉備真備が唐から持ち帰った知識や思想は、当時の陰陽道の発展に影響を与えたとも云われる
 ・伝説によれば、唐に留まった阿倍仲麻呂の代わりに『金烏玉兎集』を持ち帰り、阿倍氏の子孫に伝えたとされる
・延暦4年(785年)、藤原種継暗殺事件が起こり、冤罪で幽閉された早良親王が非業の死を遂げる
 ・その後、桓武天皇の身辺の被災や弔事が頻発したため、天皇は怨霊に怯えるようになったとされる


平安時代


・延暦13年(794年)、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都する
 ・この頃より、朝廷を中心に怨霊を鎮める「御霊信仰」が広まったとされる
 ・宮廷陰陽師に悪霊退散の技術が求められるようになり、これを以って公的に陰陽師が呪術を会得することになった
  ・これを契機に、古神道に加え、星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていったとされる
・宮廷において陰陽道が定着し始めると、陰陽師は天皇や貴族に重用されるようになり、社会的地位が高まったとされる
 ・陰陽道の知識は、天皇や貴族の教養にも影響するようになり、やがて宮廷陰陽道化が進んだとも云われる
 ・既存の陰陽道に多様な宗教知識や思想が取り込まれ、多様性を帯びるようになったとも云われる
・平安中期、陰陽師は皇族や貴族に重用されるようになり、カリスマ化していった
 ・摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が緩むと、非官人の「ヤミ陰陽師」が貴族と癒着するようになった
  ・「ヤミ陰陽師」は、主に貴族の私的な占いや祭祀を司ったとされるが、呪詛や呪殺も請け負うようになったとされる
  ・「宮廷陰陽師」にも、ヤミ陰陽師のように貴族と私的に癒着する者が現れたとされる
  ・こうした背景から、朝廷中核の精神世界を支配し、政権で暗躍するようになったとも云われる
 ・一方、陰陽道・天文道・暦道のいずれをも究めた賀茂忠行・賀茂保憲 父子など、優秀な陰陽師も現れた
  ・その弟子から、安倍晴明も排出された
・平安後期、賀茂忠行、賀茂保憲、安倍晴明が台頭し、朝廷で優秀な才能を発揮した
 ・彼らは多くの功績を讃えられ、異例の出世を遂げたという
・陰陽頭となった賀茂保憲は、嫡子・光栄に暦道を、弟子・晴明に天文道をあまねく伝授した
 ・それぞれが世襲秘伝秘術化したため、以降 賀茂家の暦道と安倍家の天文道に分かれて行ったとされる
  ・賀茂家の暦道は、宿曜道の色彩の強いものに独特の変化を遂げていった
  ・安倍家の天文道は、極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯びるようになった
 ・以来、賀茂家と安倍家の両家からのみ陰陽師が輩出されるようになったとされる
  ・難解な天文道を得意とする安倍家からは、多くの達人が排出されたとも
  ・陰陽頭は常に天文道を究めた安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した
・晴明の孫・安倍章親の陰陽頭就任後、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表明した
 ・これによって陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更に陰陽寮の職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになった
  ・そのため、官制としての陰陽寮は完全に形骸化した
  ・朝廷内における陰陽師は、そのカリスマ性を以って朝廷中枢の精神を支配し、平安末期まで威勢を奮った
 ・一方、民間でも地方で非官人の陰陽師が台頭するようになったという(蘆屋道満が有名)


鎌倉~戦国時代


・建久3年(1192年)、鎌倉幕府が成立し、政権が武家に移る
 ・新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあったとされる
・建保7年(1219年)、3代将軍源実朝が暗殺され、北条氏による執権政治が展開されるようになった
 ・鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになった
  ・招かれた傀儡将軍達は、平安期の流れを踏襲して陰陽師を重用したとされる
・4代将軍藤原頼経以降、態々京から陰陽師を招聘することなり、身辺に陰陽師集団を確保するようになった
 ・その陰陽道集団は「権門陰陽道」と称されたという(「武家陰陽師」とも)
 ・武家陰陽師は兵法に陰陽道や奇門遁甲を取り入れ、軍事の参謀として活躍したとされる
・鎌倉期以後、軍事において諜報・破壊・暗殺などを担う忍者が重用されるようになった
 ・忍者の忍術・武術・諜報術の基盤は、修験道や密教の術に由来すると云われる
  ・武家陰陽師は、この忍者部隊に陰陽道を指南していたのではないかと云われている
  ・法師陰陽師や武家陰陽師から忍者に転向する者も居たと云われる
 ・伝承によれば、忍者は聖徳太子が作った諜報部隊である志能備に由来すると云われる
  ・そのため、端から陰陽道の知識を得ていたのではないかとも云われる
・承久3年(1221年)、承久の乱が起こる
 ・この時、朝廷側は陰陽寮の陰陽師達を重用し、将軍は権門陰陽師達を重用したという
  ・特に中後期鎌倉将軍にとっては、陰陽師は欠かせない存在であったとされる
 ・実権を握っていた執権の北条一族は 必ずしも陰陽道にこだわりを持っていなかったとされる
  ・配下の東国武士から国人と呼ばれる武士層に至るまで、陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかった
  ・そのため、陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなくなったとされる
・鎌倉中期以降、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになった
・延元元年(1336年)、室町幕府が開かれる
 ・京に幕府を開いた足利将軍家は、次第に公家風の志向を持つようになったとされる
  ・3代将軍足利義満の頃から、陰陽師が再び重用されるようになった
・南北朝期、賀茂家と安倍家の両家に差異が生じ始めた
 ・賀茂家は「勘解由小路家(かでのこうじけ)」と名乗るようになった
  ・賀茂在方が『暦林問答集(方位と暦に関する本)』を著すなどの活躍をしたとされる
  ・しかし、室町中期に得宗家の後継者が殺害されると、勢力は徐々に凋落した
 ・安倍家は足利将軍家の庇護によって出世し、「土御門家(つちみかどけ)」と名乗るようになった
  ・土御門家は、勘解由小路家の断絶の機会を捉え、その後5代に亘って天文・暦の両道に関わる職掌を独占した
・応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こる
 ・下克上の風潮が広まると武家達は生き残りに必死になり、形式的に用いていた陰陽道を重視しなくなった
 ・戦乱によって京も荒れたため、陰陽師を庇護していた朝廷の力も衰弱していった
・天文年間(1532~1555年)、土御門家は所領の若狭国・名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開した
 ・土御門有宣をはじめ、子・有春、孫・有脩の3代にわたり、陰陽頭でありながら京に出仕することがほぼ無くなった
 ・専ら若狭に留まり、泰山府君祭などの諸祭祀を行っていたとされる
  ・困惑した朝廷は、やむなく勘解由小路家を召し使ったとも
 ・勘解由小路家(賀茂家)は宮廷にて祭祀の需要が無くなると、庶民に需要のあった暦作りで食いつないだ
  ・永禄8年(1565年)、陰陽頭だった賀茂在富(勘解由小路在康)の死を以って断絶した
  ・在富の嫡男に賀茂在昌がいたが、キリスト教に入信したため、破門にされた
・天正元年(1573年)、織田政権が確立する
 ・織田政権の下、陰陽頭・土御門久脩と暦博士・賀茂在昌が作成した京暦に不備があることを信長に指摘される
  ・このミスによって、武家から陰陽師不信を招くこととなる
・天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一する
 ・翌年、甥・秀次を養子として関白職を譲り、秀吉が太閤となる
・文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで切腹を命じられる
 ・その際、豊臣家に仕えた土御門久脩が秀次の呪詛を請け負ったという噂が秀吉の耳に入ったとされる
  ・秀吉の怒りを買った有脩は、尾張国に配流となった
 ・さらに陰陽師に不審を抱いた秀吉は、土御門家の排斥と共に陰陽師の大量弾圧を行った
  ・これを以って、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失した
  ・一方、国家機密とされていた陰陽道が一気に民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した
・秀吉の陰陽師大弾圧以後、「陰陽師」という呼称は非官人の民間陰陽師を指すようになった
 ・民間に流出した陰陽道は、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げたという
  ・さらに安倍晴明が著したとされる『ほき内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として流行した
 ・漂泊する民間陰陽師が現れると他の漂泊民と共に賤視されたが、一部は「ハカセ」と呼ばれて敬われた
  ・一方、陰陽師を自称し、高額な祈祷料や占断料を請求する者もなった
  ・そのため「陰陽師」という言葉に対して、胡散臭いイメージが定着することなったという


江戸時代


・慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、徳川家康が覇権を握る
 ・土御門久脩は家康から知行(土地)を与えられ、宮中への復帰を果たした
・慶長8年(1603年)、江戸幕府が開かれる
 ・土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められた
  ・陰陽師は、江戸圏開発の際の地相を担当したほか、日光東照宮建立の際などにしばしば用いられた
 ・幕府は、民間信仰を統制する目的で当時盛んだった民間陰陽師の活動を抑制に乗り出した
  ・施策の権威付けのために陰陽家2家(賀茂・安倍)を再興させ、諸国の民間陰陽師を支配をさせようと画策した
・土御門家は、江戸期の陰陽家再興を契機に陰陽寮の独占を画策した
 ・天和2年(1682年)、幸徳井友傳が若死をきっかけに幸徳井家(賀茂家の分家)を事実上排除した
 ・土御門家は陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、朝廷の庇護を受け、幕府にも陰陽師を統括する特権を認めさせた
 ・各地の陰陽師に対する免状(「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、公認の家元的存在となった
 ・土御門家の陰陽道は、外見に神道形式をとって「土御門神道」として広く知られるようなった
  ・以後、土御門家は絶頂期を迎えることとなり、陰陽道が将軍家の儀礼に取り入れられたりしたとも
・江戸期には、各地の陰陽師の活動も活発になり、民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せたという
・貞享元年(1684年)、渋川春海によって貞享暦(日本人の手による初の新暦)が完成する
 ・それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた
・宝暦5年(1755年)、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還した
 ・しかし、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされる
・天保12年(1841年)、幕府天文方が主導権を取り戻して天保暦が作成された
 ・土御門家の宝暦暦に比べて、相当 高精度の暦であったとされる


明治~現代


・慶応3年(1867年)、大政奉還がなされ、その翌年より明治時代が始まる
 ・陰陽頭・土御門晴雄は、明治維新の混乱に乗じて陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望した
  ・その念願を叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した
 ・明治政府は、西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画した
  ・それを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張した
  ・しかし、晴雄本人の死去により、この案が取り上げられることはなかった
 ・明治政府は「国家神道」を推進するべく、曖昧な立場の陰陽道を排斥する動きを見せた
  ・慶応4年(1868年)の神仏分離令を契機に、仏教と共に排除に向かったとされる
・明治3年(1870年)、明治政府は陰陽寮廃止を強行した
 ・陰陽寮の職掌であった天文・暦算を大学・天文台、または海軍の一部に移管した
・明治5年(1872年)、天社神道禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された
 ・また、後陽成天皇から孝明天皇の代まで必ず行われてきた陰陽道の儀礼「天曹地府祭」は明治天皇には行われなかった
 ・土御門家は陰陽諸道を司る官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなった
  ・やむを得ず、土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師に影響力を奪われることとなった
 ・明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなった
  ・さらに民間においても陰陽道の流行は見られなくなった
  ・しかし、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況だった
・大東亜戦争以後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止された
・現在、土御門家は天社土御門神道本庁として、福井県西部のおおい町(旧名田庄村)に本拠を置いている
 ・ただし、平安期の陰陽道とは かけ離れているとも


代表的な陰陽師

賀茂忠行


賀茂忠行(かものただゆき)とは 平安時代の陰陽道の達人であり、賀茂保憲の父、安倍晴明の師としても知られています。また、奈良時代に活躍した修験道の祖・役小角の子孫であるとも云われています。

忠行は、940年に承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)が勃発した際、この対策として時の権力者・藤原師輔に当時の密教の高僧でさえ知らなかった「白衣観音法」を進上したことを機に重用されるようになったとされます。

また、卜占(ぼくせん)には驚異的な的中力があったとされ、『朝野群載』には、村上天皇が水晶念珠を見えないように箱に入れてその中身を占じさせたところ、見事に言い当てたという伝説が記されているそうです。

そのほか、忠行は 当時の陰陽寮で専門家によって分業されていた陰陽道・天文道・暦道のすべて究めていたことから、その職掌を超えてこれらの分野を掌握し、陰陽家・賀茂氏を確立したとされます。

そして、子の保憲、弟子の晴明という偉大な陰陽師を育成し、陰陽道と暦道の発展に大きく寄与したとされています。


賀茂保憲


賀茂保憲(かものやすのり)とは 平安中期の陰陽道の達人であり、賀茂忠行の子、安倍晴明の師としても知られています。

『今昔物語』によれば 幼い頃から異形の者を目撃するなど 霊能力に長けていたとされ、その才能を見抜いた父・忠行によって陰陽道を教え込まれたとされています。

陰陽寮においては陰陽頭にまで出世し、「当朝は保憲をもって陰陽の規模となす」と称されるほど 高評価を得ていたとされており、暦道も究めて暦に関する本も書き残したそうです。

そして、子の光栄に暦道、弟子の晴明に天文道を伝授し、後の賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作ったとされています。


安倍晴明


人文研究見聞録:陰陽師とは?(陰陽師の概要と歴史まとめ)

安倍晴明(あべのせいめい)とは 平安時代に活躍した日本で最も有名な陰陽師であり、師に賀茂忠行、保憲 父子を持ち、ライバルに蘆屋道満がいるとされています。

伝説によれば、阿倍仲麻呂の子孫(本人が自称したとも)であり、母は「葛の葉」という白狐であるとされます。また、「幼い頃から鬼が見えた」「母の形見の宝物を得て 天地のあらゆることを知り、鳥獣の声も聞くことが出来た」「多くの占術、呪術を究め 死者をも蘇生させることができた」などと云われています。

そして、陰陽寮では天文博士になり、晩年は主計権助、大膳大夫、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などを歴任するなど、異例の出世を遂げたとされます。また、子孫は後に陰陽寮を統括した土御門家となったとされています。

詳しくはこちらの記事を参照:【安倍晴明とは?】


蘆屋道満


人文研究見聞録:陰陽師とは?(陰陽師の概要と歴史まとめ)

蘆屋道満(あしやどうまん)とは 平安時代の呪術師(非官人の陰陽師)であり、貴族に雇われた播磨国の民間陰陽師集団の出身と云われています(諸説ある)。

伝説によれば、安倍晴明と御前で術比べして負けたとされ、以後、晴明の弟子になった、または、復讐のために命を狙ったとされており、これらの伝説は、文学や歌舞伎、浄瑠璃などの多くの作品で描かれているとされています。

また、晴明が五芒星(セーマン)の呪符を使ったのに対し、道満は九字(ドーマン)の呪符を使ったとされています。


陰陽師一覧

飛鳥・奈良時代(陰陽家)


・恵慈(えじ):推古朝に高句麗から来朝した僧であり、聖徳太子の仏法の師となる
 → 仏法に併せて陰陽五行思想をもたらしたとも
・観勒(かんろく):推古朝に百済から帰来した学僧であり、日本における初代僧正
 → 天文地理書・元嘉暦の暦本・陰陽五行思想に基づく遁甲方術・摩登伽経を伝えた(日本の陰陽道のルーツとされる)
  ⇒ 聖徳太子をはじめ、選ばれた34名の弟子たちに講じたとも
  ⇒ 陽胡玉陳に暦法を、大友高聡に天文を、山背日立に遁甲方術を授けたとされる
・陽胡玉陳(やこのたまふる):推古朝に隋から帰来した帰来人とも、大隅国の豪族出身者ともいわれる
 → 観勒に師事して暦法を修め、日本における暦道の祖となった
・大友高聡(おおとものたかさと):推古朝に渡来したとされる
 → 観勒に師事して暦法を修め、日本における暦道の祖となった
・山背日立(やましろのひたて):皇族出身者と云われるが、詳しくは不明
 → 観勒に師事して兵書の忍術である遁甲を修め、日本における遁甲方術の祖となった
・僧旻(そうみん):百済からの帰来人であり、百済系保守派を代表する人物
 → 小野妹子の第1回遣隋使に随行し、隋に24年間留まって仏教・儒学・陰陽五行思想・天文・易学など広く諸学を修めた
 → 親百済派である蘇我入鹿や祭官家の中臣(藤原)鎌足らに易学(周易)を講じた
 → 天文に精通しており、舒明朝に流星を天狗と説き、彗星を飢饉の前触れであると説いた
聖徳太子(しょうとくたいし)推古朝における皇太子であり、摂政として政治を司った
 → 外来の諸学に精通しており、思想を始め十七条憲法や冠位十二階に陰陽五行思想が見られる
秦河勝(はたのかわかつ)秦氏の出身で、聖徳太子の側近として活躍した(ブレーンという説もある)
 → 邸宅が四神相応に守られた土地に位置していたため、後に邸宅跡に平安京が造営された
 → 秦氏は謎の渡来人であるため、景教や迦波羅(ユダヤ神秘思想のカバラ)を伝えたという説もある
・大海人皇子(おおあまのおうじ):後の天武天皇
 → 天文や遁甲に精通しており、壬申の乱の際に自ら占うほどだったとされる
 → 陰陽寮を設置し、陰陽師を官職とした(外薬寮には呪禁師)を配置した
役小角(えんのおづの)修験道の開祖であり、陰陽家の賀茂氏の祖先に当たるとされる
 → 修験者から民間陰陽師が発生したとも云われる
・津守通(つもりとおる):奈良時代の著名な渡来人系の陰陽師(津守連道とも)
 → 持統天皇や草壁皇子に重用され、天武朝に大津皇子と石川郎女の密通を占いによって見破ったとされる
・吉備真備(きびのまきび):奈良時代の公卿・学者
 → 遣唐使として派遣された際、唐から陰陽五行思想を学び、さらに文献を多数持ち帰って来たとされる
 → 聖武天皇の下で呪禁師を廃止して陰陽道を採用したり、陰陽道に基づいた大衍暦を採用するなどした
 → 伝説では、阿倍仲麻呂の代わりに その子孫(安倍晴明)に『金烏玉兎集』を伝えたとされる
・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ):遣唐使に留学生として随行し、唐の高官にまで登ったが、帰国できず当地で没した
 → 伝説では安倍晴明の先祖とされ、晴明自身も自らの祖と自称したとされる(史実は異なるとも)


平安時代


・滋岳川人(しげおかのかわひと):文徳天皇・清和天皇の頃に活躍した陰陽師
 → いわゆる宮廷陰陽道の始祖とされ、式占・遁甲の大家で呪術にも長けていたとされる
  ⇒ しばしば虫害除去や雨乞いの祭祀を行ったとされる
・弓削是雄(ゆげのこれお):清和天皇・宇多天皇の頃に活躍した陰陽師で、滋丘川人の弟子とされる
 → 怪僧と言われた道鏡と同族で、式占の達人であったといわれる
・三善清行(みよしきよゆき):平安時代中期の漢学者
 → 陰陽寮生出身の陰陽師ではないが、天文・陰陽・易学に通じていた
 → 死後、葬列が一条戻橋を通った際、子の祈願によって一時的に蘇ったと云われる
・賀茂忠行(かものただゆき):世襲陰陽家の名門となった賀茂氏の祖であり、賀茂保憲の父、安倍晴明の師
 → 陰陽道・天文道・暦道を究めたとされ、卜占の正確さにも定評があったとされる
・賀茂保憲(かものやすのり):平安中期を代表する陰陽師の一人であり、賀茂忠行の子、安倍晴明の師
 → 子の賀茂光栄に暦道、弟子の安倍晴明に天文道を伝授し、後の賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作った
・賀茂光栄(かものみつよし):賀茂保憲の嫡子であり、安倍晴明と並び称される陰陽師とされる
 → 暦道に優れたほか予知能力にも長けており「的中すること掌を返すが如し」と絶賛されたという
安倍晴明(あべのせいめい)平安中期を代表する陰陽師であり、後の土御門氏の祖となった
 → 半生の多くが伝説として語られ、伝説では母は白狐であり、蘆屋道満とライバルだったとされる
 → 朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の6代天皇および、藤原道長・藤原実資に重用されて影響力を奮った
 → 陰陽諸道の中で難解とされる天文道に通じ、天文博士を勤めた
 → 式神の十二神将を駆使して、驚異的な呪術を展開したとされる
・安倍吉平(あべのよしひら):安倍晴明の嫡子
 → 父・晴明や賀茂光栄と並び称される陰陽師として藤原道長・藤原実資らに重用された
 → 天文博士・陰陽博士から陰陽助にまで昇進したとされる
・安倍吉昌(あべのよしまさ):安倍晴明の次男
 → 賀茂保憲に目をかけられ、後に陰陽頭にまで昇進した
・安倍章親(あべのあきちか):安倍吉平の子
 → 陰陽頭に就任した際、賀茂氏に暦博士を、安倍氏に天文博士を代々独占世襲させることと定めた
・安倍泰親(あべのやすちか):安倍泰長の子(安倍晴明5代の子孫)
 → 藤原頼長や九条兼実に重用されて、陰陽頭にまで昇り詰めた
 → 卜占の達人で、平家滅亡とその時期まで予言的中させ、「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた
・安倍泰成(あべのやすなり):安倍泰親の子
 → 陰陽道は学ばなかったとの話が伝わるが、『神明鏡』では妖狐・玉藻前と呪術で対決したとされる
・蘆屋道満(あしやどうまん):道摩法師の名でも知られる平安中期の播磨の非官人陰陽師
 → 伝説では主に安倍晴明の敵役として登場し、概ね反対の立場に属して争う
  ⇒ 五芒星を用いた晴明に対し、道満は九字を用いたことから、これらの図形を「セーマン・ドーマン」と呼ぶという
・智徳法師(ちとくほうし):播磨国の僧
 → 僧でありながら、陰陽道の呪法や占術を用いて金を稼いだ民間の陰陽師とされる
・鬼一法眼(きいちほうげん):京の一条堀川に住んでいた伝説の陰陽師
 → 源義経に剣術を教えたことでも知られ、剣の大家・京八流の創始者でもあるとされる

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。