人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

万葉歌人として有名な柿本人麻呂ですが、国史には登場しないため、その生涯は多くの謎に包まれています。

そんな人麻呂の謎に迫るべく、今まで集めた文献や伝承などの資料をまとめて その人物像を見出してみたいと思います。

※現在 手に入れた情報に基づいてまとめているため、到らない部分が多数あると思われます。



柿本人麻呂の概要

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

人麻呂の名前・生没年・系譜


名前


・名前:柿本人麻呂(柿本人麿、かきのもとひとまろ)
・別名:柿本人丸(かきのもとひとまる)、柿本人麿朝臣(朝臣は八色の姓における第二位の姓)
・神号:柿本人麿命、柿本大神、人丸大神、柿本大明神、人麿大明神、人丸大明神

生没年


・生年:斉明天皇6年(660年)頃
 → 高津柿本神社では旧暦8月1日を生誕日として八朔祭を行っている
・没年:養老4年(720年)頃
 → 没年を神亀元年(724年)3月18日とする伝承が多数ある
 → 生年不詳のため、死亡年齢には諸説ある

参考サイト:柿本人麻呂(Wikipedia)

系譜


・出自:孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の柿本氏出身とされる(諸説を下記に記載)
・妻:引手の山の妻、石見の妻、依羅娘子、軽の里の妻(和歌からの推定)
 → 柿本神社(葛城市)の伝承によれば、当地 柿本村の依佐良姫を娶ったとも
・子:柿本蓑麿(依羅娘子の子)、その他にも上記の妻に子が居たと推測されている
・後裔:益田氏の庶流(「石州益田家系図」「石見周布系図」による)
 → 人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降に益田氏を称して石見国人となったとされる
  ⇒ ただし、益田氏の嫡流は藤原国兼を祖とする藤原北家道兼流とされるのが通説となっている

参考サイト:柿本人麻呂(Wikipedia)竹取翁と万葉集のお勉強


人麻呂の出自の諸説


・一般的な説
 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、春日氏の庶流に当たる柿本氏出身とする
  ⇒ 父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とし、依羅娘子との子・柿本蓑麿が居るとする(石州益田家系図)
  ⇒ 父を柿本猨とする(石見周布系図)
・高津柿本神社の社伝
 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、小野氏族の一派である柿本族出身とする
・戸田柿本神社の社伝
 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、春日族、小野族、櫛代族と同族の柿本氏出身とする
  ⇒ 父を柿本氏某、母を綾部家の女とする
・葛城市の柿本神社の伝承
 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、柿本邑出身の石見守・柿本宗人の子とする
  ⇒ 柿本邑に母が居り、妻を依佐良姫とし、真済上人を又従兄弟の関係にあるとする
・和爾下神社・極楽寺の伝承
 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、和爾氏の末裔に当たる柿本氏出身とする
・益田市の民話
 → 石見国の戸田村の柿の木の元に、突如として現れた神童とする
  ⇒ 語家(綾部家)の養子とする


人麻呂の生没地の諸説


生誕地の諸説


・小野説(島根県益田市):高津柿本神社、戸田柿本神社の社伝および 益田市の民話として残る説
・柿本邑説(奈良県葛城市):柿本神社(葛城市)周辺にあったとされる柿本邑の伝承として残る説
・櫟本説(奈良県天理市):天理市櫟本町の和爾下神社付近にあったとされる柿本寺に残る説

死没地の諸説


・鴨島説(益田市):高津・中須沖にかつて存在した鴨島を鴨山とする説(梅原猛に支持された説)
 → 当島にあったとされる「人丸社」を継承する高津柿本神社がある
・鴨山説(浜田市):亀村の津目山(亀山)を鴨山とする説
・神山説(江津市):浅利町の室神山(屋上山)を鴨山とする説
・湯抱説(邑智郡):湯抱の鴨山とする説(斎藤茂吉の説)
・その他:死没地を石見国としない意見もある(ただし、改葬伝承は多くあるが、石見以外の有力な説は見つからない)

参考記事:鴨島趾展望地(柿本人麻呂終焉の地)


柿本人麻呂の経歴

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

経歴の諸説


柿本人麻呂の経歴には諸説あります。そのため、出典別にそれらをまとめてみたいと思います。

後世の国学者・研究者による諸説


・出仕以前の具体的な定説は無い(出自に関しては上記を参照)
・天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられる(『万葉集』巻十 2033による)
・天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられている
 → 宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではないため、立場については不明とされる
 → 近江朝にも出仕していたとする見解もある
・草壁皇子に舎人として仕えたとみられている(国学者・賀茂真淵の説)
 → 製作年が明らかとなっている歌は、持統3年(689年)の草壁皇子挽歌である(『万葉集』巻二 167~170)
 → 複数の皇子・皇女に歌を奉っているため、特定の皇子に仕えていたともいえないという
・石見国で亡くなったとみられる(『万葉集』巻二 223~227による)
 → 石見国の妻・依羅娘子(よさみのおとめ)らによって詠まれた歌がある(下記「人麻呂を追悼する挽歌」参照)

参考サイト:柿本人麻呂(Wikipedia)


高津柿本神社の社伝による説


・人麻呂は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の小野氏の庶流の柿本氏の出身である
 → 柿本氏は石見小野郷の地に小野氏の縁戚を頼って移住し、人麻呂は小野の地に誕生したとされる
・青年時代に都に上り、持統天皇・文武天皇の両朝に宮廷歌人として仕えた
・後に石見国の役人として赴任し、製紙業を広めて地元の産業の礎を築いた
 → 石見地方で製造される「石見半紙」は その流れを汲むものとされる
・鴨島の地で、神亀元年(724年)3月18日に逝去した
 → 「鴨山の 岩根し枕ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」の歌を残したとも
・死後、文武天皇の勅命によって終焉地である鴨島に「人丸社」が創建された
 → 万寿3年(1026年)に起こった大地震の影響によって水没したとされている
 → 鴨島の人丸社の御神体は漂着したため、それを継承する神社として高津柿本神社となったという

参考資料:高津柿本神社縁起


戸田柿本神社の社伝による説


・人麻呂は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の柿本氏の出身である
 → 柿本氏の同族には、春日族、小野族、櫛代族の一部がいるとも
・人麻呂は柿本氏某と語家(綾部家)の女の間に生まれた
 → 幼くして父を失ったため、母方の語家に養育されたとも
・語家に通った70代の老翁が、幼少期の人麻呂に書を授けたという
・人麻呂は若くして 歌を詠み、詩を作り、弓馬の術を身に着けていたという
 → 生誕~出仕以前までの人麻呂の様子が文献に記録されているとも
  ⇒ ただし、これ以降は明らかではなく、死後までの具体的な仕様は無い様子
・人麻呂は30歳前後の時に出仕したとされる(これについては推定)
・晩年は鴨島で逝去したという説を採る
・死後、語家によって人麻呂の御廟所が設けられた
 → 遺髪を埋めたため「遺髪塚」とも

参考サイト:戸田柿本神社(公式)戸田柿本神社(当ブログ記事)


和爾下神社・極楽寺の伝承による説


・人麻呂は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、和爾氏の末裔に当たる柿本氏の出身である
・人麻呂は柿本氏の氏寺である柿本寺周辺で生まれた
・宮廷歌人として高市皇子や草壁皇子の挽歌を作るなど宮廷歌人として活躍した
・晩年、終焉地については不詳

参考サイト:極楽寺


柿本神社(葛城市)の伝承による説


・人麻呂は柿本邑出身の石見守・柿本宗人と当村の女の間に生まれた
・依佐良姫を娶って当地で没した
 → 依佐良姫の墓は根成柿村の天満神社の境内にあるという

参考記事:柿本神社(柿本山影現寺)


石見国風土記によるもの


・天武3年8月(676年)、人麻呂は石見国守に任命された
・同年9月3日、左京大夫四位上行に任命された
 → 左京大夫四位上は文武朝で成立した官位であるため、時代が合わないと云われる
・翌年(677年)3月9日、正三位兼・播磨国守に任命された
 → 明石の柿本神社は、この内容に基づくとしている
・以来、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙の期間に至り、七代に渡って朝廷に仕えた者である
 → 孝謙天皇の即位は天平21年(749年)である
・持統天皇の時代に四国の地に配流にされ、文武天皇の時代に東海のほとりに左遷される
・子息の躬都良(みつら)は隠岐の島に流され、ここで死去する


その他の伝承によるもの


・人麻呂は戸田の柿の木の元に現れた神童であり、家も両親も無かったため、語家に引き取られた(益田の民話)
・人麻呂は播磨に流されたが、異国より鬼人が来たため、和歌で追い払うよう勅命が下った(八幡人丸神社の社伝)

参考記事:柿本人麻呂の伝説(まとめ)柿本人麿伝承岩(足型岩・聖なる岩)


人麻呂を追悼する挽歌


・223:鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
 → 柿本朝臣人麿の石見国に在りて臨死らむとせし時に、自ら傷みて作れる歌
・224:今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に[一云、谷に]交りて ありとはいはずやも
 → 柿本朝臣人麿の死りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌
・225:直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
 → 柿本朝臣人麿の死りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌
・226:荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ
 → 丹比真人が柿本朝臣人麻呂の心を推し量り、代わって応えた歌一首
・227:天離る 夷の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けりともなし
 → 作者いまだ詳らかならず(妻の立場に立った歌で、人麿物語の伝誦管理者の歌と推定される)


歌人としての柿本人麻呂

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

歌人としての特徴と評価


柿本人麻呂の歌人としての特徴と評価は以下の通りです。

『柿本人麻呂歌集』『万葉集』などに多数の和歌を残している(370首以上とも云われる)
『万葉集』第一の歌人といわれ、後に「歌聖(かせい)」と仰がれた
和歌に枕詞、序詞、押韻などを駆使しており、格調高い歌風であると評価される
讃歌・挽歌・恋歌に特徴があるとされる
「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる


人麻呂の代表歌


歌人・柿本人麻呂の代表歌には以下ものが挙げられています。

・48:東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
・47:ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
・255:天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
・266:近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ

参考記事:柿本人麻呂の詠歌(『万葉集』まとめ)


人麻呂の諸国放浪


歌人・柿本人麻呂のゆかりの地とされる地域は以下の通りです。

・群馬県:『万葉集』巻十四 3417
・栃木県:人丸神社(佐野市)の社伝には、当地に人麻呂が訪れたと伝えられる
・三重県:『万葉集』巻一 40~42、巻二 199~201
・滋賀県:『万葉集』巻一 29~31、巻二 217~219
・京都府:『万葉集』巻三 264、華台寺にある伝承によれば「巨椋池」についての歌を詠んだとも
・大阪府:『万葉集』巻三 249
・奈良県:『万葉集』巻一 、巻二、巻三、巻四、巻七、巻九、巻十から多数(宮廷歌人としての本拠)、社寺伝承ほか
・和歌山県:『万葉集』巻二 146、巻四 496~499、巻九 1796~1799
・兵庫県:『万葉集』巻三 249~256、巻四 303~304、巻十五 3609、石見国風土記ほか
・岡山県:『万葉集』巻二 217~219
・島根県:『万葉集』巻二 131~137 223~225、巻七 1248~1250、神社伝承・鴨島伝承・民話ほか
・香川県:『万葉集』巻二 220~222
・大分県:『万葉集』巻九 1710~1711

参考記事:柿本人麻呂の詠歌(「地域別」まとめ)柿本人麻呂にまつわる全国の神社仏閣(まとめ)


祭神としての柿本人麻呂

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

人丸信仰


柿本人麻呂は、死後「人丸神」として多くの社寺で祀られるようになったとされています。

その信仰は、生前の実績に因んで「和歌の神」「文学の神」とされるものや、名前の「人丸」に因んで「火止まる」として「防火の神」、「人生まる」として「安産の神」など多数存在します。

また、信仰される地域についても多岐に渡っており、特に群馬県・栃木県の一部、奈良県の一部、島根県西部、山口県全域などで盛んに信仰されているようです。

なお、調べてみると意外に人麻呂のイメージの無い地域で祀られているケースが数多く見られます。

参考記事:柿本人麻呂にまつわる全国の神社仏閣(まとめ)


人丸神について


人丸神として崇敬された柿本人麻呂は、以下の様な神として祀られています。

・和歌の神:特に優れた歌人であったことから(和歌三神の一柱でもある)
・学問の神:和歌の名手ということにちなんで「文学の神」とされることから
・芸能の神:和歌の名手であったことから
・防火の神:「人丸」と「火止まる」をひっかけたことから
・安産の神:「人丸」と「人生まる」をひっかけたことから
・商業の神:人麻呂を「龍神」とし、商業の神とされることもある
・漁業の神:人麻呂を「龍神」とし、漁業の神とされることもある
・産業の神:石見国守として製紙業を広めたと云われることから
・疫病除け神:詳しい理由は不明だが、高津柿本神社の人丸神は疫病除けの神として霊験あらたかとされている
・眼病平癒の神:明石の柿本神社の人丸神が盲人の目を治したとされることから
・水難除けの神:鴨島伝承や水刑死説にまつわるものとされる
・夫婦和合の神:和歌に妻を思って詠んだものが多いことから
・縁結びの神:同上
・生活の守護神:石見国守として製紙業を広め、石見の民の生活を安定させたと云われることから

参考記事:人丸信仰とは?(柿本人麻呂にまつわる信仰)


備考

人麻呂にまつわる異説・俗説


人麻呂と同一と推測される人物


・柿本猨(かきのもとのさる):『続日本紀』に登場する人物で、和銅元年(708年)4月20日に死亡記事がある
 → 政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説がある
・猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう):三十六歌仙の一人(生没年不明)
 → 梅原猛は著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と同一人物であるとの仮説を示している
・三輪高市麻呂(みわのたけちまろ):飛鳥時代の人物で、天武・持統・文武の三天皇に仕えて従四位上・左京大夫となる
 → 人麻呂と同時代の人物で共通点が多く、石見国風土記の内容に類似するため、同一とする説もある(俗説)


当ブログで集めた人麻呂にまつわる資料


和歌とは?(和歌と言霊)
高津柿本神社縁起(柿本人麻呂の資料)
柿本人麻呂の詠歌(『万葉集』まとめ)
柿本人麻呂の詠歌(「地域別」まとめ)
柿本人麻呂にまつわる全国の神社仏閣(まとめ)
柿本人麻呂の伝説(まとめ)
人丸信仰とは?(柿本人麻呂にまつわる信仰)
カテゴリ「柿本人麻呂」


考察

伝説的な人物としての柿本人麻呂


日本史には優秀な才能を以って活躍したとされるものの、その出自が明らかでない人物が多数存在します。その主な人物として、菅原道真安倍晴明などが挙げられます。

まず、菅原道真は菅原是善の子とされていますが、生誕地には諸説あります。滋賀県の余呉湖に伝わる伝承によれば「羽衣を奪われた天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、菅山寺の僧・尊元阿闍梨に養育されて、後に菅原是善卿の養子となった」という伝承があります。

次に、安倍晴明ですが、晴明の父母についての歴史的な記録は無く、伝説によれば「晴明の母は葛の葉という白狐であり、父の安倍保名は賀茂保憲のもとで陰陽道の修行をしていた人物である」とされています。

これと同様に島根県益田市にも柿本人麻呂の伝説的な出自を語る民話があり、それによれば「現在の戸田柿本神社がある場所には、柿の古木があり、その柿の元に突然 7、8歳の頃の男児が現われた。語家の人間が男児に出自を問うと『私には家もなく、父、母も居ません。知っているのは和歌の道だけです』という。そのため、語家が男児を引き取って養育することになった。そして、後に歌人・柿本人麻呂となったという」と伝えられています。

そのため、人麻呂も道真や晴明と同様に「伝説的な出自を持つ人物である」と考えられます。

参考記事:柿本人麻呂の伝説(まとめ)


和歌を呪術として操った柿本人麻呂


柿本人麻呂を調べる過程で「和歌」について調べてみると面白いことが分かりました。

まず、「和歌」とは「言霊を用いた呪術」を起源とするとされています。そして、人麻呂の時代の歌風である「万葉風」は「歌を呪術とする意識が残り、対象に働きかける積極的な勢い」が特徴とされています。

また、「言霊」とは「言葉に宿る霊的な力」を指し、「声に出した言葉が現実の事象に影響を与える」と考えられていたようです。そのため、人麻呂の詠歌には「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も残されています。

人麻呂は「『万葉集』第一の歌人」であり、「歌聖」と称えられるほど優秀な歌人として後世に伝えられていますが、上記のことから「言霊を用いた呪術である和歌を自在に操ることができた人物」と仮定することができます。

なお、人麻呂の伝説には「慶雲4年(708年)、異国より鬼人が渡って来たため『和歌の徳を以って防ぐべし』として人丸に勅命が下り、播磨への左遷が取り消され、明石から多々良宮に着いた人丸は、一首の和歌を以って異敵を海底に沈めたという」というものもあります。

人麻呂が時代に頭角を現す飛鳥時代の伝説的な人物として、聖徳太子役小角などが居ますが、いずれも常人を遥かに凌ぐ才能を持つとされる半面、優秀すぎるが故に脅威と見なされ、歴史の表舞台から追いやられるような扱いも受けています(聖徳太子には怨霊伝説があり、役小角は弟子の讒言によって流刑にされている)。

人麻呂の半生を辿って見ると、聖徳太子、役小角などの伝説的な人物の性格に非常に類似しているように思います。そのため、人麻呂が流刑になったとされる由縁には「呪術的な和歌を操る人麻呂を、脅威と見なして追放した」というような解釈もできるのではないでしょうか?

参考記事:和歌とは?(和歌と言霊)

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。