人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

徳島県徳島市にある八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)です。

阿波史跡公園の歴史の森ゾーンに位置しており、古来より杉尾山を神体山とする磐座信仰の神社であるとされています。

また、創祀は紀元前に遡るとされる古社であり、元々は気延山の山頂に祀られていたそうです。そして、推古元年(593)に現在地に遷座し、江戸時代に奥の院を拝するための拝殿と本殿を造営して現在に至るとされています。

なお、境内地に当たる気延山には200余りの古墳群があり、その中でも最も大きな前方後円墳が神社の境内とされています。その前方後円墳の前方部には拝殿・本殿が、後円部に当たる場所には奥の院が築かれ、奥の院には五角形の祭壇に磐座が祀られています。

神社の主祭神である大日靈女命(八倉比売命とも)は、阿波独特の神話が記された社伝の『天石門別八倉比賣大神御本記』の内容に基づいて天照大神の別名とされています。

そのため、気延山古墳群からの出土品(三角縁神獣鏡)および、天照大神は卑弥呼のモデルであると言う説と相俟って「奥の院の磐座は卑弥呼の墓である」という説も唱えられているようです。

また、由緒書によれば、柿本人麿の「妻籠る 矢野の神山 露霜に 匂ひそめたり 散らまく惜しも」という歌にある「矢野の神山」は、八倉比売神社の縁起に因む当地を指すとされています(ただし、比定地については諸説ある)。

厳密にいえば「日靈大神」であり、社伝の内容が『記紀』と同じであることから同神とされる

磐座信仰についてはこちらの記事を参照:【磐座信仰とは?】


神社概要

由緒

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の由緒は、境内の由緒書に詳細に記されています。その内容は非常に濃く、かつ、興味深い内容なのでここに転載しておきます(読みやすいように、やや加筆修正しています)。

天石門別八倉比賣神社略記

当社は鎮座される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体として崇め奉る。

江戸時代に神陵の一部を削り、拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは柳田國男(民俗学者)の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。

奥の院は、海抜116メートルの丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)の柄鏡状(えかがみじょう)に前方部が長く伸びた古墳であり、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積(こぐちづみ)で築かれている。その青石の祠には、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴している。

また、杉尾山麓の左右には陪塚(ばいしょう)を従がえており、杉尾山より峯続きの山頂海抜212メートルの気延山(きのべやま)一帯にある200余りの古墳群の中でも最大の古墳となっている。

当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している。

また、銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者の折口信夫は天照大神を三種に分けて論じ、「阿波における天照大神は、水の女神に属する」として、「最も威力ある神霊」を示唆しているとしたが、これは余りにも知られていない。なお、当社より下付する神符には「火付せ八倉比賣神宮」と明記されている。

鎮座の年代は定かではないが、安永二年(1773)三月の古文書にある「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五(2105)年を経ぬ」の記録から逆算すれば、起源前332年(孝安天皇61年)に当たる。しかも、その伝承時期が安永二年よりも遡ると仮定すれば、鎮座年代はさらに遡ると推測される(由緒書およびWikipediaの内容には計算違いがあるため、ここで修正しています)。

また、当社は正一位杉尾大明神、天石門別 八倉比売神社(あまのいわとわけ やくらひめじんじゃ)などと史書に見えるが、本殿には出雲宿禰千家某(いづものすくねせんげなにがし)の謹書(きんしょ)になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の扁額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。

古代阿波の地形を復元する鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。そのため、天照大神のイミナを「撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)」と申し上げるのも決して偶然ではない。

なお、本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井(あめのまない)がある。元文年間(1736~1741年)まで十二段の神饌田(しんせんでん)の泉であった。現在大泉神として祀っている。

当祭神が、日本中の大典であったことは古文書『阿波国徴古雑抄(あわこくちょうこざっしょう)』が証明している。延久二年(1070)六月二八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭(きねんつきなめさい)は邦国之大典也(ほうこくのたいてんなり)」として奉幣を怠った阿波国司を厳しく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。

『天石門別八倉比賣大神御本記』の内容によれば、推古元年から2105年前とも捉えることができ、その場合、創祀はBC.1512となる。

祭神

 八倉比売神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・八倉比売命(ヤクラヒメ):天照大神の別名であるとされる
 → 古伝によれば、イザナギの左目から生まれ、日靈大神、八倉乃日靈大神という別名があるとされる

天石門別八倉比賣大神御本記について

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

阿波独自の神話が記される『天石門別八倉比賣大神御本記』の内容についてここに触れておきます。ただし、この古文書は学術的にはまだ認められていないようで、偽書とする説が一般的であるようです。

なお、下記に示す内容は原文を自分で訳したものであり、その中には由緒書にある葬儀のようなニュアンスは見られませんでした。そのため、誤訳や誤解があるかも知れません(強いて言えば「天岩戸」に類似する部分がそれに当たるとも取れます)。

天石門別八倉比賣大神御本記(※誤訳に注意してください。)

古の天地の初めの時、高天原に現れた神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシ)という。

次に国が浮いた脂のように漂っているときに、葦の芽が生えるように生まれた神を國常立尊(クニノトコタチ)という。

その後 生まれた神に伊邪那岐神(イザナギ)次に妹の伊邪那美神(イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。

最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢(はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢(あめのはばや)』と『天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。

よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。

そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野(やのの)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉(やのみくら)」と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉(ゆみのみくら)」という。

そして、二柱の神(松熊二神はその後も此処に留り、御矢倉を御弓を守り続けた。

その後、比賣大神(八倉乃日靈大神)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天降った。最初は杉の小川の清き流れを見て「この川は深くて流れが早い」と申された。そのため、此処を「早渕の村」という。

このとき、大地主神(土宮)と木股神(御井神)が参上し、この河の魚を漁って献上した。すると、太神(八倉乃日靈大神)は「鰭(はた)の狭物と言うべき食物である」と申されたので、その河を「鮎喰川」という。

また、このとき(八倉乃日靈大神は)大地主(おおくにぬし)木股神(きまたがみ)に「吾(われ)が住むのに相応しい場所に、汝らが案内せよ」と勅命を下すと、大地主神が答えて「ここより西方に朝日の真っ直ぐに刺し、夕日の日が照る気延の嶺があります。その地に先導しましょう」と申した。

すると、伊魔離神(いまりのかみ)という神が現れて、昼間に野で採れた五百の野薦(敷物?)や八十玉籖(玉串)など様々なものを献上した。それから、西方の杉の小山の麓に辿り着くと、天石門別が出迎えをした。

そこで、大神(八倉乃日靈大神)が「汝らは吾の言う通りにして待っていたのか?」と問うと、「はい、ここが神宣の通り御矢を納めた所でございます」と答えた。それを聞いた大神は褒辞を与えて、そこで一晩過ごした(このため「矢倉の郷」または「屋度利の社」という)。

なお、山坂を登って杉の小山を通って気延山に到ると、広浜神(ひろはまのかみ)が現れて時節の御衣を献上した。そのため、此処を「御衣足(みぞたり)」という。

ただちに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と廣敷を立て、高天原を装って天上のように鎮座した(なお、「天石門(あまのいわと)」を押し開くため「天石門別(あまのいわとわけ)」という。八倉の郷に居る姫御神であるために「八倉比売(やくらひめ)」という)。

この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(天エラキ楽?)を行った。その神々の集った所を「喜多志嶺(きたしみね)」という。また、その宴(嘘楽)に使った色々な物を納めた所を「加久志の谷(かくしのたに)」という。

そこで大神は「雲の居る 八倉の郷の 喜延山 下津岩根に 宮井そめとも」と歌を詠んだ。

その後、大泉神(おおいずみのかみ)が「天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また、小泉神田口の御田を献上して『御饌の御田(みけのみた)』とする。気延山は大日靈貴神の坐す所であるため『神山』とする」と勅命を発した。

これより後、二千百五年(2105)を経た小治田御宇元年龝八月(推古元年秋8月)に、大神(八倉乃日靈大神)は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して曰く「吾(われ)の宮のある場所は遥か高く急峻である。このため、神主や祝部、巫(みこ)などが参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山(杉尾山)は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない、正に良い場所である。そのため、この嶺に遷座することにしよう。吾(われ)は以前、天より持ってきた瑞の赤珠(みずのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あめのあかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は、諸々の邪鬼、妖怪および諸々の者に『これは病も厭う奇妙なる験(しるし)である』と教え諭してある。」と申された。

赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇め奉ったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を「印璽の嶺(しるしのみね)」という(また「御石ノ峯」ともいう)。

このとき、神主や祝部らは大神の託した通りに遷座して奉ったという。しかし、神主らが「諸々の人々は、これを信じないだろう」と言うと、大神も「そうであろう」と申された。そして大神(八倉乃日靈大神)は「吾(われ)が御前の谷の水を逆に山の頂きから漑いで御田を作ろう、それを以って宮の食糧とせよ」と勅命を下した。

すると、一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至った。そして田の穂はすぐに成熟し、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を「左迦志麿谷(さかしまだに)」といい、その田を「志留志田(しるしだ)」という)。そのため、神主や祝部、および多くの若者は、その神宣が事実であったことに畏怖・畏敬を念を抱いたという。

遷座したのは九月十三日である、よって、この日を以って御霊の現れし日として奉るのである。云々

※松熊二神:松熊神社祭神の手力男命(タヂカラオ)と天宇受女命(アメノウズメ)を指す

関連社

八倉比売神社の境内および阿波史跡公園周辺には『天石門別八倉比賣大神御本記』に基づく祭神が祀られた神社がいくつか祀られています。今回は全ての神社を廻ったわけではないので、参拝した神社を取り上げて紹介したいと思います。

伊魔離神社

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の参道付近にある伊魔離神社(いまりじんじゃ)です。

由緒書については不明ですが、社名から祭神は『天石門別八倉比賣大神御本記(御本記)』に登場する伊魔離神(いまりのかみ)であると思われます。なお、この神は『御本記』によれば、八倉乃日靈大神(天照大神)が大地主神に先導されている際に登場し、五百箇野薦や八十玉籖など様々なものを献上したとされています。

なお、境内には阿波特有の五角形の地神塔(土地の祭礼に由来する石碑)が安置されています。

地神塔についてはこちらの記事を参照:【謎の地神塔】

箭執神社

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八倉比売神社の参道入口に鎮座する箭執神社(やとりじんじゃ)です。

創建年代不詳の神社であり、祭神に櫛岩窓命(クシイワマド)豊岩窓(トヨイワマド)を祀っています。また、由緒書によれば、これらの神は御門の神であり「天石門別神(アマノイワトワケ)」とも云うとされています。

なお、『御本記』によれば、八倉乃日靈大神の最初の勅命によって「天羽々矢」と「天麻迦胡弓」を持って葦原中国に天降り、そこでその弓矢を奉蔵するよう申し付けられた神とされます。そして、八倉乃日靈大神が杉の小山(杉尾山)に到着した際にも勅命を守ってに弓矢を奉蔵していたことから、褒辞を賜ったとされています。

また、由緒書には箭執神社は八倉比売神社の由緒に深い関係があると記されており、八倉比売神社と共に相当古い神社であるとされています。

松熊神社

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の参道に鎮座する松熊神社(まつくまじんじゃ)です。

創建年代不詳の神社であり、祭神に手力男命(タヂカラオ)天宇受女命(アメノウズメ)を祀っています。

由緒書によれば、両親とも天照大神に仕えたゆかりの深い神であるとされ、本宮に伝わる『御本記』には松熊神社は麓の箭執神社(上記)を矢の御倉とし、当社を弓の御倉と号して、日靈大神(ひるめのおおかみ)が高天原から座すまで御弓を守り奉ったと記されているとしています(つまり、松熊二神は手力男命と天宇受女命を指すとされる)。

境内の見どころ

一の鳥居

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の一の鳥居です。

この先は基本的に坂道となっており、本宮までは坂道を登っていく必要があります(かなり長い)。

木の鳥居

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の木の鳥居です。

本宮に続く石段の前にある鳥居は木造の鳥居となっています。

石段

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の石段です。

坂道を上った後に待ち構える相当長い石段となっています。

拝殿

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の拝殿です。

結構立派な社殿となっています。

本殿

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の本殿です。

稲荷社

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の稲荷社です。

由緒書にはありませんが、稲荷神を祀っているものと思われます。

小さな祠

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の参道および境内には、こうした小さな祠が数多く祀られています。

茅の輪

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の社殿の裏手には茅の輪が掛けられています。

夏場の茅輪神事に用いられるものでしょうか?

茅の輪についてはこちらの記事を参照:【茅の輪の起源】

奥の院

人文研究見聞録:天石門別 八倉比売神社 [徳島県]

八倉比売神社の奥の院です。

主祭神の神霊が座す五角形の祭壇とされており、その中心の祠には磐座が祀られています。

社伝によれば推古元年(593)に山頂より遷座したとされ、一説には卑弥呼の墓ではないかとも言われています。

なお、付近にある「天の真名井」という井戸も五角形であることから、この形に拘りがあるものと思われます。

付近には陰陽道で有名な播磨および土佐のいざなぎ流がありますが、何か関係するのでしょうか?

陰陽道についてはこちらの記事を参照:【陰陽道とは?】

奥の院の磐座

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八倉比売神社の奥の院の磐座です。

由緒書によれば、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」とされ、永遠の生命を象徴しているとされています。

しかし、その形から男茎形であるとも推察され、古代の生殖器崇拝に関連するものとも考えられます。

生殖器崇拝についてはこちらの記事を参照:【生殖器崇拝(性器崇拝)とは?】

料金: 無料
住所: 徳島県徳島市国府町矢野531(マップ
営業: 終日開放
交通: 府中駅(徒歩40分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。