箸墓古墳(卑弥呼の墓?) [奈良県]

奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)です。

墳長およそ278m、高さ約30mの前方後円墳であり、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓である「大市墓(おおいちのはか)」に治定されています。

しかし、箸墓古墳の築造時期や文献資料から「卑弥呼(ひみこ)の墓」であるという説もあります。

また『日本書紀』にも築造に関する記述がみられることから、それにちなんだ「三輪山伝説」も残されています。


三輪山伝説

箸墓古墳(卑弥呼の墓?) [奈良県]

『日本書紀』の崇神天皇10年9月の条には、次のような説話が載せられています。

三輪山伝説


箸墓古墳(卑弥呼の墓?) [奈良県]

倭迹々姫命は、三輪山に住む大物主神(オオモノヌシ)の妻となりましたが、この神は昼は見えず、夜にしか現れませんでした。


倭迹々姫命は大物主神に対して、「あなた様は常に昼は見えないので、はっきりとその お顔を見る事ができません。お願いですから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗しい お姿を見たいと思います。」と言いました。


すると大物主神は、「お前の言ってる事はよく分かる。私は明日の朝、お前の櫛笥(櫛を入れる箱)に入っているから、私の姿を見て驚くなよ」と答えました。


倭迹々姫命は、心の裏で密かに怪しんでいました。そして、夜が明けるのを待ってから櫛笥の中をを見てみると、とても美麗い小蛇がいました。 その長さと太さは下衣の紐のようであり、それを見て驚いて叫びました。


大物主神は妻に驚かれたことを恥ずかしく思い、すぐに人の形になりました。そして、「お前は我慢出来ずに私に恥をかかせた。私も山に還って お前に恥をかかせよう」と言い、大空を踏んで三輪山に登っていきました。


倭迹々姫命は それを仰ぎ見ながら後悔すると、その場に尻もちをつき、箸で女陰をついて亡くなりました。


それで亡骸は大市(桜井市北部)に葬むられ、世の人はその墓を箸墓(はしのはか)と名付けました。この墓は、大坂山の石を人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運んできて作りました。昼は人が作り、夜は神が作った古墳です。


※倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)=倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)

要約すると、大物主(オオモノヌシ)の妻となった倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)が、夫の正体が蛇であることを知って驚いてしまったために、大物主の祟りを受けて亡くなってしまった。

倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)は死後、大市に葬られ、そこで作られたのが箸墓古墳である。この古墳は昼は人が作り、夜は神が作ったという。ということになります。

この伝説は「三輪山伝説」とも呼ばれ、箸墓古墳にまつわる伝説として一般的にも知られているようです。

なお、この古墳の築造記録は『記紀』において唯一であり、これによって前方後円墳が王家の要人の墓とされたという根拠の一つとされています。

しかし、なぜか日本で最大規模を誇る「大仙陵古墳」の築造記録はありません。また、わざわざ「夜は神が作った」と記述されていることも奇妙です。

古墳というものは、本当に人の墓であり、本当に人力だけで造られたものなのでしょうか?

卑弥呼の墓説

箸墓古墳(卑弥呼の墓?) [奈良県]

箸墓古墳には、上記の他にも「邪馬台国の女王・卑弥呼の墓」という説もあります。その根拠は以下の通りです。

・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でも最も早い時期に築造されたものであること

このようなことから、「卑弥呼の墓説」が唱えられています。

また、箸墓古墳の考古学的な推定年代は、炭素年代測定法の結果、AD.240~260年の範囲に相当するとされています。

この推定年代が卑弥呼の死期に相当するという意見もあり、これも卑弥呼の墓とする根拠の一つとされているようです。

料金: 無料
住所: 奈良県桜井市箸中
営業: 終日開放
交通: 巻向駅(徒歩16分)

公式サイト: http://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/isekibunkazai/kashiramoji/hagyo/1395214364761.html
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。