人文研究見聞録:広隆寺 [京都府]

京都市右京区太秦にある広隆寺(こうりゅうじ)です。

渡来系氏族である秦氏の氏寺であり、飛鳥時代に創建された京都最古の寺とされています。

また、国宝・弥勒菩薩半跏像を蔵しており、京都三大奇祭の牛祭を主催することでも知られています。


神社概要

縁起

パンフレットによれば、推古11年(603)に創建された寺院であり、古くは蜂岡寺(はちおかでら)秦公寺(はたのきみでら)太秦寺(うずまさでら)などとも呼ばれた山城国最古の寺院とであるとされます。

また、『日本書紀』にも創建の記録があり、「推古11年11月1日、聖徳太子が尊い仏像を礼拝する者を探していたところ、太子の側近であった秦河勝(はたのかわかつ)が申し出て、蜂岡寺(現・広隆寺)を建立した」と記されています。

なお、広隆寺では『日本書紀』にある「尊い仏像」とは 現存する「弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)」のことを指し、創建当初はこの仏像が本尊であったとしています。

一方、承和5年(838)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や、寛平2年(890)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622)、この年に薨去した聖徳太子を供養するために建立されたと記されており、創建に関する年代は2つ存在しています。

これについては、603年に草創され、622年に完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがあるそうです。

しかし、創建当初から現在地に在ったかどうかは不明であり、7世紀前半に現在の京都市北区平野神社付近(北野廃寺跡に比定)に創建され、平安遷都の前後に現在地に移転したという説が有力であるとされています。

また、広隆寺は京の三大奇祭の一つである太秦の牛祭(うしまつり」を執り行うことでも知られており、最近までは毎年10月12日に行われていたそうです(ここ数年は行われていないらしい)。

※山城国:かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つであり、現在の京都市周辺を指す。平安遷都以前は山背国、山代国と表記されていた。

本尊

人文研究見聞録:広隆寺 [京都府]
聖徳太子像

・聖徳太子像:上宮王院太子殿(本堂)に安置されている
 → 創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたとされる
 → 平安遷都の前後からは薬師如来を本尊とし、薬師信仰および聖徳太子信仰の寺院となったとされる

関連知識

秦河勝とは?

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秦河勝

秦河勝(はたのかわかつ)とは、古代の渡来氏族である秦氏出身の人物であり、『日本書紀』『聖徳太子殿暦』などの史料には聖徳太子の側近として活躍し、丁未の乱では物部氏の頭領・物部守屋を討ち取り、聖徳太子から弥勒菩薩像を賜って蜂岡寺(広隆寺)を創建したことなどが記されています。

しかし、謎に包まれた人物であり、「商人で豊富な資産を持っていたことから朝廷の財政に関わっていた」「香具師(やし、いわゆる的屋)のルーツとなった」「聖徳太子が編成した諜報部隊である志能便として活躍した人物の一人」などの説や噂が唱えられています。

また、陰陽道に長けていた人物とされ、桓武天皇が長岡京から遷都する際には、風水において四神相応に守られていた河勝の邸宅跡を拠点として平安京を造営したとも言われています(平安京造営の際に秦氏が財を担ったとも言われる)。

なお、兵庫県赤穂市坂越で没したとされ、坂越浦沖にある生島に造られた古墳に葬られているとされます。そして、死後に河勝の霊を祀るために大避神社が創建され、現在でも大避大神として祀られているそうです。ちなみに、大阪府寝屋川市も秦氏および河勝ゆかりの場所とされ、市内の川勝町には河勝の墓と伝わる五輪塔が建てられています。

※作家の中山市朗氏の研究によれば、秦河勝は四天王寺創建の時もスポンサーとして資金提供していたとされる

こちらの記事も参照:【秦河勝とは?】【秦氏とは?】

弥勒菩薩とは?

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弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)
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弥勒菩薩半跏像(泣き弥勒)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、「現在仏」である「釈迦(しゃか)」の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)のことであり、釈迦の入滅(死)後 56億7千万年後の未来に この世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済する「未来仏」とされています。

それまでは、須弥山(しゅみせん)の弥勒浄土といわれる兜率天(とそつてん)にて修行に励み、諸天に説法し、釈迦に代わって全ての悩みと苦しみを救済し、正しい道へと導く慈悲の仏であるとされ、仏像における半跏思惟の形は、「一切衆生(生きとし生けるもの)をいかにして救おうかと考えている」姿を表しているんだそうです。

※半跏思惟(はんかしい):台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頬にふれて思索する(思惟)姿を指す。

牛祭とは?

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牛祭

太秦の牛祭(うずまさのうしまつり)とは、広隆寺の祭りであり、鞍馬の火祭、今宮神社のやすらい祭 とともに京の三大奇祭の一つに数えられている祭です。

牛祭の内容は、「仮面を着けた『摩吒羅神(まだらしん)/摩多羅神(またらしん)』が牛に乗り四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼松明を持ってそれに従って四周を巡行し、薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせ、祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。」といった謎めいたものとなっています。

なお、摩吒羅神は白い面を被り、四天王を眷属として従えているといった形で表現されています。

この牛祭は、明治以前は広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていたとされ、明治に入ってからは広隆寺の祭りとして復興し、近年まで毎年10月12日に行われていました。しかし、牛の調達が困難なったことや予算の関係で、現在では不定期開催とされています。

境内の見どころ

楼門

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広隆寺の楼門(ろうもん)です。

広隆寺の正門であり、門の左右には木造の仁王像が安置されています。

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仁王像(阿行)
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仁王像(吽行

薬師堂

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広隆寺の薬師堂(やくしどう)です。

堂宇の中には、木造の薬師如来立像が安置されています。

地蔵堂

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広隆寺の地蔵堂(じぞうどう)です。

堂宇の中には、木造の地蔵菩薩坐像(腹帯地蔵)が安置されています。

太秦殿

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広隆寺の太秦殿(うずまさでん)です。

広隆寺を開いた秦河勝(はたのかわかつ)を祀っています。

上宮王院太子殿(本堂)

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広隆寺の上宮王院太子殿(じょうぐうおういんたいしでん)です。

広隆寺の本堂に当たり、堂宇の中には本尊である聖徳太子立像が安置されています。

弁天社

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広隆寺の弁天社(べんてんしゃ)です。

上宮王院太子殿の付近にあり、弁才天(弁財天)を祀っています。

池の中に鎮座しており、池には睡蓮の花が咲いています。

霊宝殿

人文研究見聞録:広隆寺 [京都府]

広隆寺の霊宝殿(れいほうでん)です。

国宝の弥勒菩薩像2体をはじめ、聖徳太子、不動明王、十二神将、四天王などの様々な仏像が安置されています。

飛鳥時代より存在する木造や、空海が自ら彫ったとされる不動明王像もあり、仏教美術が好きな方にはおすすめです。

なお、霊宝殿の入場は有料となります。

料金: 無料(霊宝殿:大人700円、高校生500円、小中学生400円
住所: 京都府京都市右京区太秦蜂岡町32(マップ
営業: 9:00~17:00
交通: 太秦広隆寺駅(徒歩1分)、太秦駅(徒歩13分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。