人文研究見聞録:石切劔箭神社の起源神話

石切劔箭神社では、祭神である饒速日尊(ニギハヤヒ)の来歴にまつわる神話が伝えられているようです。

なかなか興味深い内容だったので、ここで簡単に紹介したいと思います。

石切劔箭神社(上下社)についてはこちらの記事を参照:【石切劔箭神社(下之社)】【石切劔箭神社(上之社)】


石切劔箭神社の起源(古代の河内~神社創建まで)

鳥見の里と饒速日尊の降臨


遥か昔、河内と大和の地方一帯は「鳥見(登美)の里(とみのさと)」と呼ばれ、海山の幸に恵まれた豊かな土地でした。

かつて この地方を治めていた豪族は「鳥見一族(とみいちぞく)」と言い、稲作や製鉄の技術は持たないものの、狩猟や漁業に優れ、生活用具や住居作りにも秀でていました。

また、その体格は長身であり、優れた戦闘能力を持つ「長髄の者(ながすねのもの)」として恐れられていました。

そのとき、神々の住むの高天原では、天照大神(アマテラス)が孫の饒速日尊(ニギハヤヒ)に大和建国を命じ、「十種の瑞宝(とくさのかんだから)」を授けました。

十種の瑞宝」とは、人々を治め、心身の病を癒す霊力を備えた瑞宝です。

饒速日尊は「フツノミタマの劔」を持ち、日の御子の証である「天羽々矢(あめのはばや)」を携えて「天磐船(あまのいわふね)」に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。

その船団が豊前(大分県)の宇佐に着くと、息子の天香山命(アマノカゴヤマ)に「フツノミタマの劔」と船団の半数を預けました。

そして、自らは瀬戸内海を通って大和に向かい、鳥見の里を見渡す哮ヶ峰(生駒山)に着きました。

鳥見の里の繁栄


その当時、鳥見一族の長髄彦(ナガスネヒコ)は、外敵を討ち滅ぼす猛々しい首長として鳥見の里に君臨していました。

しかし、饒速日尊と対峙した時に その徳の高さに打たれ、また尊がもたらした稲作や織物、鉄製の道具・武具の数々に文化の落差を見せられました。そのため、争うことの無益さを悟り、一族挙って饒速日尊に従うことにしました。

そのとき間に立ったのが、長髄彦の妹である三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)です。

こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適した鳥見の地に水田を拓き、大きな実りをもたらしました。これが近畿地方の稲作文化の最初と云われています。

饒速日尊はやがて三炊屋媛と結婚して可美真手命(ウマシマデ)を儲け、その後も国の発展に尽力しました。

登美夜毘売(トミヤヒメ)とも(そのほか、御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命とも表記される)

神武天皇とフツノミタマ


鳥見の里が繁栄をきわめていた時、神武天皇は日向の高千穂から東へ進行を続けていました。

そして河内へ上陸し、孔舎衙坂(現在の石切霊園付近)の方へ軍勢を進めました。それを見つけた長髄彦は「平和で豊かなこの国を奪われるわけにはいかない」と、皇軍に戦を仕掛けました。

長髄彦の軍勢は武勇に優れ、地の利もあったため、皇軍は総崩れになるほど追い込まれ退却を余儀なくされます。

神武天皇は一度河内を離れ、哮ヶ峰の麓の高庭白庭の丘に兵を集めてまとめました。そして、巨石を蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々を招来して敵味方問わず戦死者に祈りを捧げました。

神武天皇は「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りだった」と考え、日の昇る東を背にして大和へ進行しようと、熊野経由で皇軍を進めることにしました。

ところが、熊野に入ったところで熊野の女王・丹敷戸畔(ニシキトベ)の軍勢から毒矢が放たれ、それを以って皇軍は一人残らず気を失ってしました。そこに現れたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命(タカクラジ)と名を変えた天香山命でした。

高倉下命が神武天皇にフツノミタマの劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れていた皇軍も皆生気を取り戻しました。こうして復活した皇軍は、再び大和に向けて進軍を始めました。

大和統一と石切劔箭神社の創建


長髄彦は再び大和に現れた皇軍を目の当たりにした時、「我らが君主・饒速日尊こそ日の御子であり、神武は偽物である」と疑いをかけます。しかし、この頃には既に饒速日尊は亡くなっており、鳥見の長となっていたのは可美真手命でした。

皇軍が迫ってくると、可美真手命は「天羽々矢」と「歩靱(かちゆき)」を日の御子の証として神武天皇に差し出しました。すると、神武天皇も同様に証を示したため、お互いが天照大神の子孫であることが明らかになりました。

そのため、可美真手命は長髄彦に帰順を諭し、鳥見の一族共々神武天皇に仕えることにしました。また、大和の広大な稲作地や所領の数々も献上したため、ここに神武天皇を頂点とする大和の統一が為されたのです。

その後、神武天皇は可美真手命に忠誠の象徴として「フツノミタマの劔」と「河内の美田」が与えられ、その功績は末永く讃えられることになり、以来、饒速日尊・可美真手命に仕えた一族は物部氏(もののべし)となって天皇に仕えることになりました。

神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生地の宮山に饒速日尊を祀りました。これが石切劔箭神社の創建であると伝えられています。

感想・考察

この神話について


石切劔箭神社の起源神話は、『記紀』『先代旧事本紀(旧事紀)』などの史書に見られる「神武東征」前後の時代に当たる内容であり、その流れも大体それに沿った内容となっています。

しかし、その多くは神武天皇側の目線で記されており、饒速日尊側の目線で伝えられる神話は珍しいものとなっています。

ただ、「神武東征」については『記紀』『旧事紀』および諸伝承において、内容や解釈に異なる点が多いことから、数ある「神武東征」の一つとして捉えておくのが適当だと思われます。

神武東征について詳しくはこちらの記事を参照:【神武東征】

史書との比較


『記紀』における饒速日尊は記述が非常に少ないため、「長髄彦の軍勢を従える皇軍と相対する勢力であり、後に神武天皇と同祖の天孫族であることが明らかになったために和解した」ということぐらいしか分かりません。

しかし、『記紀』から抜けた情報を補完する饒速日尊側の説話が『旧事紀』に詳しく記されているため、「神武東征」は主に『古事記』『日本書紀』『旧事紀』の3つの史書に基づいて解釈されることが多いです。

石切劔箭神社の起源神話は『日本書紀』『旧事紀』の内容に加えて独自の伝承を織り込んだものとなっています。ただ、珍しいのが天孫降臨以前の鳥見地方の状況や長髄彦の詳細について伝えているという点にあります。

また、高倉下命の前身である天香山命(弥彦神社祭神)が宇佐に居たことや、可美真手命が帰順した後に出雲の平定に向かったことなども上記の史書に記されない内容であり、後者の可美真手命(宇摩志麻遅命とも)の説話はそのまま島根県の物部神社の伝承に繋がります

こうした独自の伝承が他所にも繋がっていることが面白く、かつ、史書で注目されない勢力や人物についても記述されていることから、古代史における理解を深めるために貴重なものであると言えます。また、ここから探れる新たな発見もあるのではないかと考えられます。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。