人文研究見聞録:物部神社の創建神話

物部神社の起源は、日本神話の「神武東征」に由来するものとされ、それに伴って『記紀』には記されない独自の伝承を含む創建神話が残されています。

これは、饒速日命(ニギハヤヒ)の御子の摩志麻遅命(ウマシマジ)を起源とする「石見物部氏」の歴史を紐解くための貴重な情報であると思われるため、ここにまとめて記載します。

物部神社についてはこちらの記事を参照:【物部神社(大田市)】


宇摩志麻遅命の神話


祭神の父神である饒速日命(ニギハヤヒ)は「十種神宝(とくさのかんだから)」を携えて「天磐船(あめのいわふね)」に乗り、大和(河内国)の哮ヶ峯(生駒山)に天降りました。

そして、その地の豪族の首長である長髄彦(ナガスネヒコ)の妹・御炊屋姫命(ミカシキヤヒメ)を娶って、当社祭神である宇摩志麻遅命(ウマシマジ)を儲けたました。饒速日命は大和の発展に大きく貢献し、父の亡き後は宇摩志麻遅命がそれを引き継いで国土開拓に尽力したと云われています。

その後、神武天皇が東征を経て大和で帝位に就くと、宇摩志麻遅命は天皇に忠誠を尽くし、それによって神剣「韴霊剣(フツノミタマ)」を賜りました。また、神武天皇の即位の際には、五十串を樹(た)てて韴霊剣と十種神宝を奉斎し、天皇のために鎮魂宝寿を祈願したとされ、これが鎮魂祭の起源になっていると云われています。

そして、宇摩志麻遅命は異母兄である天香具山命(アメノカゴヤマ)と共に、物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定し、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座しました。

一方、宇摩志麻遅命はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮(いつへ)を据えて天神を奉斎し、安の国(安濃郡)と定めました。

また、宇摩志麻遅命は鶴に乗って鶴降山(つるぶやま)に降臨し、そこで国見をしたときに、八百山(やおやま)が大和の天香具山に似ていたことから、その麓に宮居を築いてそこに鎮座し、その地を「折居田」と名付けました。

以来、八百山を神体山として崇め奉ったと云われています(これが物部神社の起源だと思われる)。

※厳瓮(いつへ):神聖な土器であり、神事の際に用いられる

社殿の創建


継体天皇8年(513)、天皇の勅命により、祈祷を専門とする神社として社殿が創建されたとされています。しかし、石見銀山争奪などの度重なる兵火によって三度消失したそうです。

その後、宝暦三年(1753)に社殿の再建が行われ、文政元年(1818)の修理を経て、安政三年(185年)に改修が行われて現在に至っているとされています。なお、現在は県指定文化財に指定され、春日造では全国一の規模なんだそうです。

物部神社と石見物部氏


石見国に属する「石見物部氏(いわみもののべし)」は、物部神社の社伝によれば神武東征後に石見に入って当地に鎮座した宇摩志麻遅命(ウマシマジ)を初代とするものと考えられます。

なお、石見物部氏の由緒に因んで、そもそも物部神社は部民設置地説以外に「出雲勢力に対する鎮めとして創建された」とする説もあり、大阪府の石切劔箭神社の社伝にも「可美真手命(宇摩志麻遅命)は、神武天皇即位の翌年、出雲地方の平定に向った」とあることから、出雲との相対関係が裏付けられます。

また、物部神社の社家については、第12代景行天皇の時代に物部竹子連が「石見国造」に任ぜられ、その子孫が川合長田公を名乗って代々祭祀を行っていたとされますが、文治4年(1184)に金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたとき、その子の道美が取って代わって神主となり、以降、金子氏が代々の祭祀を行うようになったとされています(つまり、長田家は石見物部氏の直系であった)。

そのため、神武東征以降の全国平定に際し、本州の西エリアの平定を命じられた宇摩志麻遅命が出雲国との境界である石見国(大田市)に留まり、その拠点として八百山の麓に宮居(現・物部神社)を構えたということであり、それ以降、子孫が「石見物部氏」として代々物部神社を奉祀する社家に収まったものと思われます。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。