人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

東京都千代田区大手町にある将門塚(しょうもんづか)です。

オフィス街の一角に位置しており、平安時代に平将門の乱で戦死した「平将門公の首が落ちた場所」とされています。

その景観から既に異様な場所であることは明白であり、古くから「首の伝説」や「怨霊伝説」があることで知られているため、「日本最強の怨霊」として有名ですが、真摯に崇敬すれば守護神となるとも云われています。

そのため、パワースポットとして捉えられることもあり、慰霊碑の前には今でも供物が絶えることがないとされています。

平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】


史跡概要

首塚の概要

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

伝承によれば、平安京で晒し首となった将門公は、夜になると怪しく光って胴を求めて叫び続け、その3日目に夜空に舞い上がり、胴のある関東に向かって飛び去り、その途中で力尽きて落ちた場所が この首塚とされています。

なお、この伝承自体にも様々な種類があり、さらに落ちたとされる伝承地も複数あることから、将門公の首塚とされる場所は全国にいくつかあります。また、将門公の首を密かに持ち去って祀ったという伝承もあり、都内では九段にある築土神社が その伝承に基づいているとされています。

また、かつて この場所には墳丘と石室もしくは石槨があったとされ、古墳であったとも言われているそうです。

なお、将門塚の案内板には以下のように記されています(以下転載)。

東京都文化財 将門首塚の由来

今を去ること1500余年の昔、桓武天皇5代の皇胤 鎮守府将軍・平良将の子 将門は、下総国に兵を起し たちまちにして坂東八ヵ国を平定、自ら平新皇(たいらしんのう)と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを「天慶の乱」という。

将門の首級(しるし)は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後 白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ち、この場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。

その後もしばしば将門の怨霊が祟りを為すため、徳治2年、時宗二祖真教上人は、将門に「蓮阿弥陀佛」という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍らの神田明神に その霊を合せ祀ったので、ようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったという。

天慶の乱の頃は、平安期の中期に当たり、京都では藤原氏が政権を欲しいままにして、我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものがあった。

その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門に寄せた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。

このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火(のろし)であると共に、弱きを助け、悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。

歴史

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

神田明神の社伝によれば、将門公の首は平安京から持ち去られて神田明神の近くに葬られ、それを将門塚として東国の平氏武将の崇敬を集めたとされています。

しかし、嘉元年間(14世紀初頭)に将門塚の周辺で疫病や天変地異が頻発したため、それが将門公の祟りであるとして人々を恐れさせたため、徳治2年(1307年)に時宗の遊行僧・真教上人が、将門公に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って、首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、その傍らの日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したとされています。

なお、神田明神でも同年に将門公が奉祀され、神田明神の別当寺である日輪寺は「将門公の『体』が訛って『神田』となった」という将門信仰を伝えてきたとされています。そのため、今なお神田明神と共に首塚を護持しているそうです。

また、大正時代の関東大震災の影響で、首塚そのものは一度損壊したとされ、その後、周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われたとされます。

そして、昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われたそうです。なお、この将門鎮魂碑には、日輪寺にある真教上人 直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本されたとされています。

将門塚例祭

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

将門塚例祭」とは将門公の慰霊のための神事であり、神田明神と氏子総代および史蹟将門塚保存会の会員らによって毎年9月の彼岸の日に執り行われるそうです。なお、将門塚は神田明神の旧鎮座地に当たります。

この祭は「前祭」と「例祭」に分かれており、「例祭」は関係者のみの参加となりますが、神輿渡御などが行われる「前祭」には一般参加もできるようです。

将門公と御霊信仰

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

将門公は日本最強の怨霊であり、日本三大怨霊の筆頭としても有名です。

日本には奈良末期から平安期にかけて、都で疫病や天変地異が起こる原因を怨霊の仕業と捉え、その怨霊を鎮め慰めることによって、鎮護の神とするという「御霊信仰」が広まっていったとされています。

関西における代表的な怨霊は、藤原時平の讒訴よって大宰府に左遷された菅原道真公(すがわらのみちざね)であり、道真公の死後、延長8年(930年)に起こった「清涼殿落雷事件」では、平安京は落雷に焼かれ、左遷に関わった藤原清貫が落雷の直撃を受けて焼死したとされています。

そのことから、菅原道真公は天満天神として祀られることとなり、現在では全国各地の天満宮で祀られています。

将門公も同様に、都内をはじめとする関東地方を中心に信仰されており、将門塚も例外ではありません。よって、最強の怨霊として恐れられる反面、真摯な態度で尊崇すれば強力な守護神となるとも云われています。

また、一説によれば、江戸時代に建てられた(再建を含む)将門公を祀る都内の神社をそれぞれ線で結ぶと「北斗七星」の形になるのは、将門公が妙見信仰(北極星や北斗七星の信仰)であったため、将門公の力を利用しようと、徳川家康と天海が敢えて配置した江戸守護のための結界であるという説があります。

詳しくはこちらの記事も参照:【御霊信仰とは?】

首塚の伝説

怨霊伝説

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

将門塚は古くから江戸における霊地とされ、将門公に対する畏怖と畏敬を以って崇敬され続けてきたとされています。そのため、ここで不敬な行為を行えば将門公の祟りがあるという伝承が生まれ、それは未だに語られ続けています。

その代表的な例が、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとしたときに起こった事故であり、そのときの工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったとされています。

そのことから、将門公の祟りの噂が省内で広まり、省内の動揺を抑えるために仮庁舎を取り壊した事件や、戦後、GHQが周辺の区画整理をしようとした際、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件にまで発展したそうです。

それらをまとめると、以下のようになります。

・1923年、大蔵省の仮庁舎を建築した際、役人の中から怪我や病気に罹る人間が続出した
・1926年、当時の大蔵大臣・早速整爾が突然倒れ意識不明となり、後に早速整爾をはじめとする14名が急死した
・1940年、大蔵省に落雷が落ちて庁舎が炎上した
・1945年、GHQが将門塚一帯を駐車場とする工事を行うと、工事中のブルドーザーが転倒して運転手が死亡した
・爆笑問題の太田光がブレイク前に首塚にドロップキックをすると、仕事が全く来なくなった

これらのことから、将門塚周辺のオフィスでは将門塚に背を向けないようにデスクが配置されているそうです。最近では心霊スポットとして有名とされていますが、安易な気持ちで近づくと痛い目を見るかもしれません。

蛙の都市伝説

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

将門塚の境内には、数々の蛙の置物が奉納されていることで知られています。

これは将門公の首が京から飛んで帰ったという伝承にあやかって「必ず帰る(カエル)」と語呂を合わせた験担ぎとされ、「左遷になった会社員が本社に無事帰れるように」や、「誘拐や行方不明になった子供が無事帰って来られるように」という願いを込めて蛙が供えられているそうです。

また、この他にも説があり、「将門公の娘の滝夜叉姫(たきやしゃひめ)が、父の復讐のために筑波のガマの毒気を浴びて妖術使いとなった」という伝説や、「将門公の本拠である茨城で昔から信仰された山にガマ石がある」という伝承に因んで蛙像が供えられるようになったとも云われています。

平将門について

将門公は怨霊としては有名ですが、その歴史を知っている人は少ないようです。そこで、将門公の概要と歴史について、以下にまとめて紹介します。

平将門とは?

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族であり、平安時代 最大の内乱である「天慶の乱(平将門の乱)」の首謀者として有名です。

また、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、関東の所領から産出される豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われています。

そのほか、「鋼鉄の身体を持ち、七人の影武者を宿す」という不死身伝説や、「晒し首になった後も生き続けた」という首の伝説など、多くの伝説を持ち、近世も「首塚を壊そうとすると祟られる」という怨霊伝説で畏怖や畏敬を集めています。

平将門の歴史

人文研究見聞録:将門塚(平将門の首塚) [東京都]

坂東平氏の台頭から平将門の乱までの歴史は以下の通りです。

坂東平氏の台頭

平安中期、朝廷は地方の政治を国司に一任していたため、地方において国司は祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていた。そのため、私利私欲に走る国司が多く、地方の政治は乱れていった。それに伴い、治安も悪化の一途を辿っていったため、自分たちの土地を護るために人々は武装し始めた(「武士」の発生)。

武士は当初は単独で戦っていたが、力を持った山賊らに勝てなくなったため、武士を率いる棟梁を地方の土着国司に求めた。そして、武士は土着国司を筆頭に「武士団」を結成し、やがて小勢力が集まって大勢力となり、貴族支配の社会を転覆させるほどの軍事力を有するようになった。

その代表格が、平将門の血筋である桓武平氏(桓武天皇の血統)である(ほかに清和源氏)。

将門の祖父・高望(たかもち)は、上総国(千葉県周辺)の国司として赴任したが、任期が過ぎても帰京せずに在地勢力との関係を深め、一族を率いて常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発した。その中で、将門の父・良将(よしまさ)は下総国(茨城県南部)を本拠として未墾地を開発、鎮守府将軍を勤めるなどして出世し、坂東平氏の勢力を拡大していった。

平氏一族の私闘

将門は15~6歳の頃に上京し、藤原忠平を私君として中級官人となるが、父・良将が死去したために帰郷すると、父の所領の多くが伯父・国香(くにか)や叔父・良兼(よしかね)によって横領されていた。将門はそれに怒り、下総国豊田を本拠として勢力を培っていった。

承平5年(935年)、将門は源護の子・扶、隆、繁の三兄弟に常陸国野本(筑西市)にて襲撃されるが、源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払って三兄弟を討ち取った。その際、さらに伯父・国香の館である石田館にも火をかけ、国香を焼死させた(襲撃のきっかけは諸説ある)。

その後、源護や国香の子・貞盛(さだもり)らによって報復のための襲撃を受けるが、将門はそれを悉く撃破し、源護は朝廷に告状を出して将門を裁こうとするも、朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦(ゆる)された。

朝廷との対立

天慶2年(939年)、常陸国の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきた。玄明は常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否、乱暴をはたらき、さらに官物を強奪したことなどから追捕令が出されていた。維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い、それに応じなかった。

その対立が高じて合戦となり、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破されて国府に逃げ帰った。将門が国府を包囲すると、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。

その勝利を機に、将門は関東八ヵ国の国府を次々と占領し、独自に関東諸国の国司を任命した。また、上野国を占領した将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣すると、将門はそれを以って自らを「新皇(しんのう)」と称した(この巫女は菅原道真の霊魂だとされる)。

以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、遂に関東全域を手中に収めた。

将門謀反の報は直ちに京にもたらされ、同時期に西国で「藤原純友の乱」の報告もあったことから朝廷は驚愕した。そこで直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられた。また、「将門を討った者は身分を問わず貴族とする」という「太政官符」を全国各地に発布した。

平将門の乱

天慶3年(940年)、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。そのころ、将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた(この間、藤原秀郷は将門側につこうとしていたとも云われる)。

すると間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力を併せて4000の兵を集めているとの報告が入った。将門のもとには1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えてその人数で出陣した。

藤原玄茂の率いる将門軍の先鋒は、貞盛と秀郷の軍に撃破され、下総国で合戦になるもわずかな手勢の将門軍の勢いは揮わず、退却を余儀なくされた。

貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠である石井に攻め入り、火を放った。将門は兵を召集するが、劣勢のためになかなか集まらず、わずか400の兵で陣を敷いた。そして、貞盛と秀郷の軍には藤原為憲も加わり、連合軍と将門の合戦が始まった。

南風(春一番)が吹き荒れると、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし、将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。

将門は自ら先頭に立って奮戦するが、何処からか飛んできた矢が将門の額に命中し、その瞬間に首を刎ねられた。すると、将門の首は勢いよく飛び立ち、現在の東京の大手町に落ちたという。なお、将門に刺さった矢には藤原秀郷の名が刻まれていたとされる(また、将門の胴体は首を追いかけていき、途中で力尽きた場所が神田明神とも)。

将門の死によって将門軍は鎮圧され、その後、関東独立国はわずか2ヶ月で瓦解した。また、残党は掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺された。そして、将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下がそれぞれ授けられた。

※藤原秀郷(ふじわらのひでさと):当時の関東最強の武士(俵藤太とも)。近江三上山の百足退治の伝説で有名

将門の首

平将門の乱の後、将門の首は京に持ち帰られて梟首(晒し首)とされた。しかし、将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。

しかし、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠み上げると、将門はカラカラと笑い、たちまち朽ち果てたという(また、将門の首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう)。

料金: 無料
住所: 東京都千代田区大手町1-2
営業: 終日開放
交通: 大手町駅(徒歩5分)

公式サイト: http://www.kandamyoujin.or.jp/event/detail.html?id=15&m=09
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。